あっさりとした中世ヨーロッパ史 【封建社会と教会】

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投稿者:       投稿日時:2014/02/04 07:06      
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ゲルマン人の一部は、フランク人として大陸西北部に王国を形成した

→フランク人は、西ヨーロッパ全体に支配を広げ、フランク王国を作った

=その結果、800年にカール大帝という人がローマ教皇からローマ皇帝という位を授かった

 

カール大帝は、ローマ=カトリック教会の守護者になった

→カール大帝は守護者として西ヨーロッパを、東ローマ帝国に対抗するための統一した地域としてまとめた

※東ローマ帝国は、後にビザンツ帝国になる

 

→その後、フランク王国は分裂し、別々の国として発展した

 

 

 

時代が進むにつれ、西ヨーロッパでは社会での役割に応じた、以下のような身分制度が確立し、はっきり区別された

・神へ奉仕する聖職者

・土地を支配して、武力を独占する戦士

・土地の支配者の所有地で働く生産者(領主の荘園で労働する農奴

※戦士は、国王などから土地を授かって騎馬戦士として仕える騎士(騎馬戦士)に分かれた

=このような、身分階層を持った社会を、封建社会という

 

 

一方で、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、西ヨーロッパ帝国が滅亡した後も、皇帝の支配のもとで続いた

→東ローマ帝国のトップだったユスティニアヌス帝は、6世紀の時に東ヨーロッパを大帝国へ復興させた

※ただし、その後はだんだんと領土が縮小した

 

 

東ローマ帝国は、専制君主(世俗の支配権と最高の宗教的権威を持つ制度)だった

→東ローマ帝国は、11世紀にローマ=カトリック教会と完全に分けたギリシア正教会を成立させた

※ギリシア正教会の成立によって、東ローマ帝国はギリシア文化を継承した

 

 

※東ヨーロッパでは、ゲルマン人が西側に移動したとき、スラヴ人という人達が入ってきた

→スラヴ人は、ビザンツ帝国の影響を受け、ギリシア正教会を受け入れていった

 

 

 

11~12世紀には、ヨーロッパの封建社会が大きく発展した

※この時に、ローマ=カトリック教会の勢いも強まってきていた

→そのため、ローマ=カトリック教会は、以下のようなことを行った

・教皇や司祭などの強固な階層組織を築いて独立した

・教えを整え、民衆の信仰心をローマ=カトリック教会の教えの中に取り込んだ

・小さな集落に教会堂という高い塔ができ、民衆に支えられるようになった

 

教皇(ローマ=カトリック教会のトップ)は、聖地イエルサレムをイスラームから奪うことを考えて、十字軍を作った

※十字軍は、何度も作られながらも、結果的に失敗した

→この失敗によって、教皇の権威が衰えた

→一方で、十字軍をきっかけとして東方との交流が増えた

 

 

 

10世紀までのヨーロッパ社会は、自給自足的な農業生活に頼ってきた

→11~12世紀には、農業生産力の上昇、人口増加、ヒトとモノとの活発な移動が起きた

※この移動によって、農村から離れる人達が出てきた

→農村から離れた人たちからは、職人などの専門職や商人などが多く出てきた

=職人や商人などは、農村とは違う別の生活や仕組みが見られるようになり、都市が誕生した

※都市は周囲を巻き込んでどんどん発展し、のちのルネサンス文化の誕生に貢献した

 

 

 

ヨーロッパの中でもイギリスは、国王の力が強かった

→そのため、13世紀に国王の暴走を抑えようと考えた貴族の動きが強まった

=その結果、マグナ=カルタが発布された

 

→さらに、14~15世紀になると、凶作、飢餓、ペストの流行などによる人口の激減、民衆の反乱や百年戦争などの危機的な出来事が起きた

=この結果、以下の2つの動きが見られた

・弱小の領主が没落した

・国王や大諸侯は軍事力を使って危機を克服し、領地を拡大して富と権威を増やした

→そして、富と権威を増やした国王や大諸侯は、中央集権的な国家を作った

 

※同時に、イベリア半島でレコンキスタを達成した王権の力が強まった

→その勢いは、海外進出にも向けられた

※レコンキスタ・・イベリア半島からイスラーム王朝を追い出して、国土を再征服しようとした運動のこと

 

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