なぜフランス革命が起きたのか/フランス革命によってどのような動きが出てきたのか
フランスの旧体制(アンシャン=レジーム)は、大きく3つの身分があった
・第一身分・・聖職者
・第二身分・・貴族
・第三身分・・平民
※第一身分と第二身分は、免税などの特権があり、第三身分に対しては領主だった
※第三身分は、政治的発言が無く、農民と都市の人々が租税や営業活動の制限などでそれぞれ苦しんでいた
→このような状況だったため、第三身分の人達は、不満が限界に達していた
一方、当時のフランスは、軍事費とマリ=アントワネットを中心とした宮廷の浪費が原因で、国家は破産状態だった
→そこで、当時の国王ルイ16世が特権身分(第一身分と第二身分)に課税することで問題を解決させようとした
→課税に特権身分は反対し、王に三部会の開催を約束させた(=貴族の革命)
※なぜ三部会を開かせようとしたのか
・そもそも三部会とは・・なにかを決める時、第一身分と第二身分と第三身分全てを含んだ多数決で何かを決めるという集まりのこと
→この仕組みだと、第一身分と第二身分が結束すると、必然的に特権身分が物事を決めることが出来るようになる
=そのため、三部会を開くことで、特権身分の課税を撤廃しようとした
しかし、1789年に実際に三部会が開かれると、第三身分とそれに同調する貴族や聖職者が、三部会に反対するようになった
→そこで、国民議会を作り、憲法制定に向かうようになっていった
=これを、球戯場の誓いという
※国民議会に対して、軍が用意され、弾圧しようとする動きが見られた
→この動きに対してパリの人々は、バスティーユ襲撃をして、革命が始まった
パリの様子を聞いて、農民も立ち上がった
→そのため、革命がフランス全土に広がっていった(=農民の革命)
→国民会議では、以下のような動きが見られた
・封建的特権の廃止
・人権宣言の発布
・立憲君主制と制限選挙を柱とする憲法を制定
=これら一連の流れを、市民の革命という
→そして、憲法による選挙で立法議会が成立した
=立法議会は、ジロンド派の主導によって、1792年に干渉を宣言したオーストリアに宣戦し、立法議会とオーストリアとの間で戦争が始まった
※ただし、戦争によって、革命が失敗する可能性が出てきた
→その時に、サン=キュロットと呼ばれるパリの民衆が、議会に関わって革命を急激に進めた(=民衆の革命)
=この動きの結果、普通選挙で国民公会が成立した(=これを第一共和政という)
国民公会では、民主主義の実現を目指す急進派のジャコバン派が主導権を握った
=そして、ジャコバン派は1793年にルイ16世を処刑した
※ただし、ルイ16世の処刑を見て、ヨーロッパの君主国は革命が自分の国でも起きることを恐れた
=そのため、ヨーロッパ君主国は、イギリスの呼びかけで、第1回対仏大同盟を結成した
また、戦争が拡大することで、国内でも革命反対派という人達の勢力が強まっていった
→そこで、ジャコバン派の指導者だったロベスピエールという人は、革命反対派を次々に処刑していった
=このように、人々の恐怖心でコントロールする政治を恐怖政治といい、ロベスピエールは恐怖政治で危機を乗り切ろうとした
※ロベスピエールは、物価の統制や地代の無償の廃止などを行う形で、人々の要求にこたえた
→結果的に、戦争で入ってきた外国の軍を国外に追い出すことに成功した
※国外に追い出したあと、当時の統制や独裁への不満が表面化してきた
=そのため、1794年に恐怖政治が倒され、ロベスピエールが処刑されて、総裁政府が誕生した
フランス革命によって、いくつかの動きが見られるようになった
・イギリスやアメリカでの革命の流れを受け継いだことで、身分制の枠組みを徹底的に壊した
・封建制度を廃止し、市民社会を理想とした
・一国の政治が人々の生活全体を決めていくようになった
※封建社会の時は、地域ごとに法も習慣も違った