<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
		xmlns:xhtml="http://www.w3.org/1999/xhtml"
>

<channel>
	<title>アラエス &#187; 東インド会社</title>
	<atom:link href="http://ahlaes.com/post/tag/%e6%9d%b1%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%89%e4%bc%9a%e7%a4%be/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://ahlaes.com</link>
	<description>－全ての人に学びの空間を－</description>
	<lastBuildDate>Thu, 23 Oct 2025 02:10:23 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
		<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
		<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=3.8.41</generator>
<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/tag/%e6%9d%b1%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%89%e4%bc%9a%e7%a4%be/feed" />
	<item>
		<title>長崎貿易について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1206</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1206#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 24 Oct 2013 07:41:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[パワフルくん]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[江戸時代前期]]></category>
		<category><![CDATA[オランダ]]></category>
		<category><![CDATA[オランダ風説書]]></category>
		<category><![CDATA[バダウィア]]></category>
		<category><![CDATA[唐人屋敷]]></category>
		<category><![CDATA[東インド会社]]></category>
		<category><![CDATA[江戸参府]]></category>
		<category><![CDATA[糸割符制度]]></category>
		<category><![CDATA[銀]]></category>
		<category><![CDATA[長崎貿易]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=1206</guid>
		<description><![CDATA[長崎貿易について考えてみます &#160; &#160; ・長崎貿易について &#160; 　※なぜ、長崎貿易を取り上げるのか 　　→鎖国政策の時に、日本に来る船がオランダ船と中国船だけになり、 　　　貿易の港は長崎だけ [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1206">長崎貿易について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>長崎貿易について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・長崎貿易について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※なぜ、長崎貿易を取り上げるのか</p>
<p>　　→鎖国政策の時に、日本に来る船がオランダ船と中国船だけになり、</p>
<p>　　　貿易の港は長崎だけになったから</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・長崎貿易の時に、オランダはバダウィア（現在のジャカルタ）というところに</p>
<p>　　東インド会社を置いた</p>
<p>　　→オランダは、東インド会社の支店として、長崎の出島にオランダ商館を置いた</p>
<p>　　　※その時に、オランダは貿易の利益だけを追求した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※オランダは、織物類、砂糖、薬品、書籍、中国産の生糸などを日本に入れた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・幕府は、長崎を使ってヨーロッパの文物（文化の産物）を輸入した</p>
<p>　　→その時に、オランダ船が来るたびにオランダ商館の商館長が提出していた</p>
<p>　　　オランダ風説書というものによって幕府が海外の状況を知ることが出来た</p>
<p>　　　※１６３３年からオランダ人がオランダ風説書を持って江戸に来ること</p>
<p>　　　　（江戸参府）が制度になった</p>
<p>　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・中国は、明が１７世紀の半ばに倒れ、新しく清という国が出来るということが起きた</p>
<p>　　※明から清に変わる時の動乱が落ち着いてから、長崎での貿易の額が毎年増えていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※当時中国から輸入したものは、生糸、書籍、絹織物だった</p>
<p>　　　一方で、日本は銀、銅、海産物などを輸出した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日本は、輸入が増えたことによって、銀がどんどん出ていった</p>
<p>　　→幕府は、銀の流出をおさえるために、以下のようなことを行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・１６８５年に、オランダ船と清船から輸入する額を制限した</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　・１６８８年に、日本に来る清船を、年間７０隻にした</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　・１６５５年に、糸割符制度が一度廃止されて、</p>
<p>　　　　相対自由貿易（競争入札で行う貿易）になったが、</p>
<p>　　　　１６８５年に、糸割符制度が復活した</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　・１６８５年に、年間の貿易額を銀の換算で、オランダ船が３０００貫、</p>
<p>　　　　中国船が６０００貫に限定された</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　・長崎の様々な場所に住んでいた清の人の住む場所を限定する目的で、</p>
<p>　　　　唐人屋敷という居留地を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・長崎貿易についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1206">長崎貿易について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/1206/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>1</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/1206" />
	</item>
		<item>
		<title>江戸時代初期の外国との関係について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1203</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1203#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 24 Oct 2013 07:04:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[パワフルくん]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[江戸時代前期]]></category>
		<category><![CDATA[ドン＝ロドリゴ]]></category>
		<category><![CDATA[ヤン＝ヨーステン]]></category>
		<category><![CDATA[リーフデ号]]></category>
		<category><![CDATA[三浦按針]]></category>
		<category><![CDATA[山田長政]]></category>
		<category><![CDATA[慶長遣欧使節]]></category>
		<category><![CDATA[朱印船貿易]]></category>
		<category><![CDATA[東インド会社]]></category>
		<category><![CDATA[糸割符制度]]></category>
		<category><![CDATA[紅毛人]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=1203</guid>
		<description><![CDATA[江戸時代初期の外国との関係について考えてみます &#160; &#160; ・海外の日本への動きについて &#160; &#160; 　・１６００年に、オランダ船リーフデ号という船が豊後という場所にたどり着いた &#038;nbs [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1203">江戸時代初期の外国との関係について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>江戸時代初期の外国との関係について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・海外の日本への動きについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１６００年に、オランダ船リーフデ号という船が豊後という場所にたどり着いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※なぜ、オランダが日本に来ようとしたのか</p>
<p>　　　・当時のヨーロッパでは、スペインから独立を達成したオランダと</p>
<p>　　　　毛織物の工業が発達したイギリスが活躍して出てきた</p>
<p>　　　　→そこで、オランダとイギリスの２つの国が、東インド会社という会社を作った</p>
<p>　　　　　＝東インド会社を作ることで、アジアに進出することを目指していたため、</p>
<p>　　　　　　オランダが日本に来た</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>　・徳川家康は、リーフデ号の航海士だったヤン＝ヨーステン（耶揚子）と、</p>
<p>　　水先案内人（水路を安全に案内する人）だったウィリアム＝アダムズ（三浦按針）という</p>
<p>　　２人の人を江戸に呼んで、外交や貿易の顧問にした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・その後、１６０９年にオランダが、１６１３年にイギリスが徳川幕府から</p>
<p>　　貿易を行う許可を得た</p>
<p>　　→そこで、日本は肥前の平戸という場所に商館（商人が営業をする場所）を作った</p>
<p>　　　※この時、オランダ人とイギリス人は、紅毛人と呼ばれていた</p>
<p>　　　※宗教がカトリック（昔の宗教）からプロテスタント（新しい宗教）になっていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・徳川家康は、朝鮮や琉球王国などを仲介して、明と国交を回復することを交渉した</p>
<p>　　＝しかし、明に拒否されて、交渉は失敗に終わった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・徳川家康は、スペインとの貿易を積極的に行おうとした</p>
<p>　　→そこで、徳川家康はスペインにあるメキシコと貿易することを求めて、</p>
<p>　　　メキシコに京都の商人だった田中勝介という人を派遣した</p>
<p>　</p>
<p>　　　※スペインとの交流は、サン＝フェリペ号事件以来無かったが、</p>
<p>　　　　ドン＝ロドリゴという人が上総という場所に到着して、</p>
<p>　　　　次の年に徳川家康がドン＝ロドリゴに船を渡して、メキシコに返したことで復活した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※仙台の藩主だった伊達政宗という人が、１６１３年に自分の家臣だった</p>
<p>　　　　支倉常長という人をスペインに派遣して、メキシコと貿易を行おうとしたが、</p>
<p>　　　　貿易を行う交渉は失敗に終わった</p>
<p>　　　　＝この時に伊達政宗が派遣した使節を、慶長遣欧使節という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ポルトガルの商人は、マカオを拠点にして中国産の生糸を長崎に持って行くことで、</p>
<p>　　多額のお金を得ていた</p>
<p>　　→そこで幕府は、糸割符制度という制度を作ることで、</p>
<p>　　　ポルトガルの商人が利益を独占することを阻止した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※糸割符制度とは・・</p>
<p>　　　・京都、堺、長崎の一部の商人に糸割符仲間というグループを作らせて、</p>
<p>　　　　糸割符仲間が毎年春に輸入する生糸の価格を決めて、</p>
<p>　　　　決めた価格で輸入する生糸をまとめて買い、買った生糸を糸割符仲間のメンバーに</p>
<p>　　　　分配する制度のこと</p>
<p>　　　　→糸割符制度に、江戸と大阪の商人が加えられ、</p>
<p>　　　　　京都、堺、長崎、江戸、大阪は五カ所商人と呼ばれた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・日本人の海外への動きについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・日本の商人の多くは、ルソン、アンナン、トンキン、カンボジア、タイなどに</p>
<p>　　船を使って渡っていた</p>
<p>　　→幕府は、海外に渡航する商人に、海外での渡航を許可するための</p>
<p>　　　朱印状というものを渡した</p>
<p>　　　＝朱印状を持っている船を朱印船と言い、朱印船が行う貿易を朱印船貿易という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・朱印船貿易について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・朱印船貿易が盛んになった時に、海外に移住してしまう日本人も出てきた</p>
<p>　　　→そのため、海外の南方の各地に日本町という町が作られることもあった</p>
<p>　　</p>
<p>　　　　※海外に行った日本人の中で、山田長政という人は、</p>
<p>　　　　　アユタヤ朝というところの王室に重宝された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・朱印船を出した大名で代表的な人に、島津家久、有馬晴信などという人達がいる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・朱印船に出した商人で代表的な人に、以下のような人達がいる</p>
<p>　　　→・長崎－末次平蔵　・摂津－末吉孫左衛門　・京都－角倉了以や茶屋四郎次郎　</p>
<p>　　　</p>
<p>　　・朱印船貿易の時に、以下のようなものを輸入した</p>
<p>　　　→・アジア産・・生糸、砂糖、鮫皮など</p>
<p>　　　　・ヨーロッパ産・・ラシャなどの織物</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→一方で、日本は銀、銅、鉄などを輸出した</p>
<p>　　　　※当時の日本の銀の輸出額は、世界の銀の産出額の３分の１にまでなった</p>
<p>　　　　　と言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　＝以上のような動きがある中での幕府の初期の外交は、キリスト教は禁止するものの、</p>
<p>　　落ち着いた貿易は積極的に行っていく、という方針で動いていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・海外の日本への動きについて押さえる</p>
<p>・日本の海外への動きと朱印船貿易を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1203">江戸時代初期の外国との関係について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/1203/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/1203" />
	</item>
		<item>
		<title>イギリスの改革について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/972</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/972#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 16 Oct 2013 06:31:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[副店長]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代ヨーロッパ史後期・末期]]></category>
		<category><![CDATA[オコンネル]]></category>
		<category><![CDATA[カトリック教徒解放法]]></category>
		<category><![CDATA[チャーティスト運動]]></category>
		<category><![CDATA[ホイッグ党]]></category>
		<category><![CDATA[反穀物法同盟]]></category>
		<category><![CDATA[審査法]]></category>
		<category><![CDATA[東インド会社]]></category>
		<category><![CDATA[穀物法]]></category>
		<category><![CDATA[第1回選挙法改正]]></category>
		<category><![CDATA[航海法]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=972</guid>
		<description><![CDATA[イギリスの改革の様子について考えてみます &#160; &#160; ・イギリスの改革の様子について &#160; &#160; 　・イギリスでは、自由主義的な性格を強めていた 　　→そのため、イギリスで以下のような動き [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/972">イギリスの改革について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>イギリスの改革の様子について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・イギリスの改革の様子について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・イギリスでは、自由主義的な性格を強めていた</p>
<p>　　→そのため、イギリスで以下のような動きが見られるようになった</p>
<p>　　　・１８２８年に審査法が廃止された</p>
<p>　　　・１８２９年にオコンネルという人など、アイルランド人の運動が起きた</p>
<p>　　　　※この運動の結果、カトリック教徒解放法という法律が誕生し、</p>
<p>　　　　　国教徒以外でも公職につけるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・また、当時の選挙制度が、産業革命後の社会の状況に合っていなかった</p>
<p>　　→そのため、イギリス国内で選挙法の改正を求める運動が激しくなった</p>
<p>　　　＝その結果、ホイッグ党内閣は１８３２年に改革を実現した</p>
<p>　　　　※この改革を、第１回選挙法改正という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・第１回選挙法によって、以下のような変化が起きた</p>
<p>　　→・有権者が激減してしまった選挙区（腐敗選挙区）が廃止になった</p>
<p>　　　・廃止になった分の議席が、今まで独立した選挙区として認められていなかった</p>
<p>　　　　新興の商業都市や人口の多い州に分けられた</p>
<p>　　　・選挙資格が拡大された</p>
<p>　　　・産業資本家や、産業革命で豊かになった中流階級が政治的発言力を強めていった</p>
<p>　　　・地主階級は、変わらず政治的な指導力を維持し続けた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※しかし、上のような状況でも、労働者はより民主的な選挙制度を求めるようになった</p>
<p>　　　→そこで労働者は、１８３０年代後半から、男性普通選挙、議員の財産資格廃止など、</p>
<p>　　　　６カ条からなる、人民憲章というのを掲げて政治運動を行った</p>
<p>　　　　＝この政治運動を、チャーティスト運動という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・イギリスは当時、産業資本家に有利な自由貿易政策が実現していた</p>
<p>　　※自由貿易政策が実現した理由は、コブテンやブライトなどが参加した反穀物法同盟という</p>
<p>　　　同盟による運動の結果、１８４６年に穀物法が廃止されたことだと言われている</p>
<p>　　　※穀物法・・地主階級の利益を守るために、外国産の穀物の輸入に高率の関税をかけて</p>
<p>　　　　　　　　　穀物価格を維持する法律のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→その後、１８４９年には航海法も廃止された</p>
<p>　　→さらに、１８３４年には東インド会社の中国貿易独占権の廃止が実施された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・イギリスの改革の様子についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/972">イギリスの改革について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/972/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/972" />
	</item>
		<item>
		<title>近代初期のアジア市場の攻防について②　－イギリス・フランス－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/938</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/938#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 18:23:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[赤長のいちご]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代ヨーロッパ史前期]]></category>
		<category><![CDATA[アンボイナ事件]]></category>
		<category><![CDATA[イギリス]]></category>
		<category><![CDATA[フランス]]></category>
		<category><![CDATA[プラッシーの戦い]]></category>
		<category><![CDATA[七年戦争]]></category>
		<category><![CDATA[東インド会社]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=938</guid>
		<description><![CDATA[近代初期のアジア市場の攻防の様子について、イギリス、フランスを中心に考えてみます &#160; &#160; ・イギリスとフランスについて &#160; &#160; &#160; 　・イギリスは、アンボイナ事件以降、イ [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/938">近代初期のアジア市場の攻防について②　－イギリス・フランス－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>近代初期のアジア市場の攻防の様子について、イギリス、フランスを中心に考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・イギリスとフランスについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・イギリスは、アンボイナ事件以降、インド経営に力を注いだ</p>
<p>　　※中でも、マドラス、ボンベイ、カルカッタを基地として、さかんな通商活動を展開した</p>
<p>　　　→その後、３回の対オランダ戦争を通して、１７世紀の終わりに世界貿易の権力を握った</p>
<p>　　　　＝このイギリスの最後の競争相手になったのがフランスだった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※フランス東インド会社は、１７世紀の初めに作られながらも、</p>
<p>　　　すぐに活動を停止してしまった</p>
<p>　　　→その後、フランス東インド会社は１６６４年に再建されて、</p>
<p>　　　　コルベールのもとでインドに進出した</p>
<p>　　　　＝フランスは結果的に、ポンディシェリ、シャンデルナゴルを基地として</p>
<p>　　　　　イギリスと対抗した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・イギリスとフランスは、ムガル帝国の皇帝や地方政権の許可のもとでインドに進出した</p>
<p>　　※しかし、帝国が内紛になると、地方の豪族も巻き込んだ勢力争いを繰り返していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８世紀にイギリスとフランスは、北アメリカなど世界の他の地域でも</p>
<p>　　衝突を繰り返していた</p>
<p>　　→そのため、ヨーロッパで戦争が起こると、海外にも戦争が広がっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>　※七年戦争の時に、インドでは、以下のようなことが起きていた</p>
<p>　　→・クライヴという人が、イギリス東インド会社の傭兵軍を引き連れていた</p>
<p>　　　・クライヴが、フランスと地方政権の連合軍を</p>
<p>　　　　１７５７年のプラッシーの戦いで打ち破った</p>
<p>　　　　＝結果的に、イギリス領インドの基礎をきずいた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・イギリスとフランスの様子をおさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/938">近代初期のアジア市場の攻防について②　－イギリス・フランス－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/938/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/938" />
	</item>
		<item>
		<title>近代初期のアジア市場の攻防について①　－ポルトガル・オランダ－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/937</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/937#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 15:02:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[赤長のいちご]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代ヨーロッパ史前期]]></category>
		<category><![CDATA[アンボイナ事件]]></category>
		<category><![CDATA[オランダ]]></category>
		<category><![CDATA[スペイン]]></category>
		<category><![CDATA[バタヴィア]]></category>
		<category><![CDATA[フェリペ2世]]></category>
		<category><![CDATA[ポルトガル]]></category>
		<category><![CDATA[東インド会社]]></category>
		<category><![CDATA[鎖国]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=937</guid>
		<description><![CDATA[近代初期のアジア市場の攻防の様子について、ポルトガル、オランダを中心に考えてみます &#160; &#160; &#160; ・アジア市場の攻防の様子について    &#160; 　・ヨーロッパ人がアジアに進出した当初は [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/937">近代初期のアジア市場の攻防について①　－ポルトガル・オランダ－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>近代初期のアジア市場の攻防の様子について、ポルトガル、オランダを中心に考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・アジア市場の攻防の様子について</p>
<p>  </p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ヨーロッパ人がアジアに進出した当初は、既存のアジア内貿易に参加する形が中心だった</p>
<p>　　※領土の支配が重視されるようになったのは、１８世紀以降だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・ポルトガルについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・インド航路を開拓したポルトガルは、１５１０年にインドのゴアを占領した</p>
<p>　　※ポルトガルは、ゴアをアジア貿易の根拠地とした</p>
<p>　　　→そしてポルトガルは、それまで香辛料貿易を独占していたムスリム商人と競合しつつ、</p>
<p>　　　　スリランカ、マラッカ、モルッカ諸島なども支配下においた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１５１７年に、ポルトガルは広州で明と通商を開いた</p>
<p>　　→その後、１５５７年にはマカオに居住権を得て、</p>
<p>　　　マカオを拠点に対中国貿易を繰り広げていった</p>
<p>　　</p>
<p>　・１５４３年にポルトガル人の乗った船が種子島に着いたのをきっかけに、</p>
<p>　　ポルトガル人が平戸に来航した</p>
<p>　　※ポルトガル人は、１７世紀の初めまで日本と通商関係を持っていた</p>
<p>　　　→しかし、アジアにおけるポルトガルの勢力は、</p>
<p>　　　　その貿易が王室の独占事業で国内産業の発展につながらなかった</p>
<p>　　　　＝そのため、長続きしなかった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・一方で、スペインは、フェリペ２世の時代にフィリピンを領有した</p>
<p>　　→その後、フィリピンをメキシコと結んで、マニラを拠点としたアジアの貿易を行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・オランダについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・オランダは、１６０２年に東インド会社を設立してアジアに進出した</p>
<p>　　→その後、ジャワ島のバタヴィア（現在のジャカルタ）を根拠地に、</p>
<p>　　　ポルトガル人を排除しつつ、香辛料貿易の実験を握っていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・また、アンボイナ事件をきっかけに、イギリスの勢力をインドネシアから締め出した</p>
<p>　　→さらに、後のオランダ領東インドの基礎を固めた</p>
<p>　　→そして、１６５２年にアジアへの中継地として南アフリカにケープ植民地をきずいた</p>
<p>　　　※アンボイナ事件・・１６２３年に、インドメシア東部のモルッカ諸島のアンボイナ島で、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　オランダ商館襲撃の陰謀を理由にして、雇用日本人を含む</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　イギリス商館員の多くをオランダ人が殺害した事件のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１６３９年に日本の「鎖国」の体制が完成した後も、日本との貿易を許されたオランダは、</p>
<p>　　一時的に台湾も占領した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・アジア市場について、ポルトガルとオランダをおさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/937">近代初期のアジア市場の攻防について①　－ポルトガル・オランダ－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/937/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/937" />
	</item>
		<item>
		<title>重商主義について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/931</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/931#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 12:53:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[赤長のいちご]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代ヨーロッパ史前期]]></category>
		<category><![CDATA[17世紀の危機]]></category>
		<category><![CDATA[イギリス革命]]></category>
		<category><![CDATA[コルベール]]></category>
		<category><![CDATA[東インド会社]]></category>
		<category><![CDATA[特権マニュファクチュア]]></category>
		<category><![CDATA[貿易差額主義]]></category>
		<category><![CDATA[重商主義]]></category>
		<category><![CDATA[重金主義]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=931</guid>
		<description><![CDATA[重商主義について考えてみます &#160; &#160; ・重商主義について &#160; &#160; 　・近代初期、特に「１７世紀の危機」を超えた時期のヨーロッパでは、 　　国家が経済に介入する政策が採用された 　　 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/931">重商主義について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>重商主義について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・重商主義について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・近代初期、特に「１７世紀の危機」を超えた時期のヨーロッパでは、</p>
<p>　　国家が経済に介入する政策が採用された</p>
<p>　　＝このような政策を重商主義という</p>
<p>　　　※重商主義の内容は、国や時期によって様々な内容があった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１６世紀のスペインのように、はやい時期は、金銀の獲得が目指された</p>
<p>　　※この考え方を重金主義という</p>
<p>　　　→重金主義から、輸入の抑制と輸出の促進によって</p>
<p>　　　　国際収支を改善しようとする考え方に移っていった</p>
<p>　　　　＝この考え方を貿易差額主義という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１７世紀後半のフランスでは、財務総監のコルベールという人が、</p>
<p>　　以下のようにして国内の商工業を育てた</p>
<p>　　→・東インド会社を再建した</p>
<p>　　　・特権マニュファクチュアを創設した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・イギリスでは、１７世紀なかばのイギリス革命以後、商工業者の政治的な発言力が増した</p>
<p>　　→そのため、商工業者が求める国内産業の保護政策が採用されるようになっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※重商主義政策のもとでは、自分の国の製品を販売するために国外の市場が必要とされた</p>
<p>　　→そのため、重商主義が重視された時期は、イギリスやフランスなどの</p>
<p>　　　ヨーロッパの有力な国は、植民地を求めて、ヨーロッパに加えて、</p>
<p>　　　アメリカやアジアなどでも激しい争いが起きた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※ヨーロッパは、１８世紀以降に再び成長期を迎えた</p>
<p>　　→この成長を支えたのは、今まで以上に緊密になった海外とのつながりだった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・重商主義の概要についておさえる</p>
<p>・重商主義の各国の様子と影響についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/931">重商主義について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/931/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/931" />
	</item>
		<item>
		<title>独立するオランダについて</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/925</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/925#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 12:10:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[アルコール]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近世・近代ヨーロッパ史初期]]></category>
		<category><![CDATA[アムステルダム]]></category>
		<category><![CDATA[オランダ]]></category>
		<category><![CDATA[オランダ独立戦争]]></category>
		<category><![CDATA[オレンジ公ウィリアム]]></category>
		<category><![CDATA[ネーデルラント]]></category>
		<category><![CDATA[バルト海]]></category>
		<category><![CDATA[フェリペ2世]]></category>
		<category><![CDATA[ユトレヒト同盟]]></category>
		<category><![CDATA[東インド会社]]></category>
		<category><![CDATA[無敵艦隊]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=925</guid>
		<description><![CDATA[独立するオランダについて考えてみます &#160; &#160; ・独立するオランダについて &#160; &#160; 　・商業の発達したネーデルラントには、カルヴァン派の新教徒が多かった 　　※ネーデルラントを支配し [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/925">独立するオランダについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>独立するオランダについて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・独立するオランダについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・商業の発達したネーデルラントには、カルヴァン派の新教徒が多かった</p>
<p>　　※ネーデルラントを支配したスペインの王のフェリペ２世はカトリック化政策を強めた</p>
<p>　　　→この政策に乗っかって、今まで大幅に認められていた自治権を奪おうとした</p>
<p>　　　　＝その結果、１５６８年に様々な州の激しい反乱を招いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・南部のフランドル地方の１０州は、スペインの支配下にとどまった</p>
<p>　　→一方で、北部の７州については、１５７９年にユトレヒト同盟を結んで、</p>
<p>　　　オラニエ公ウィレム（オレンジ公ウィリアム）のもとに抵抗を続けた</p>
<p>　　　＝その結果、１５８１年にネーデルラント連邦共和国の独立を宣言した</p>
<p>　　　　※ネーデルラント連邦共和国は、オランダとも言われる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・豊かなオランダが反乱を起こしたことは、スペインにとって大きな打撃となった</p>
<p>　　→そこでスペインは、オランダの独立を支援したイギリスを攻撃することを考えた</p>
<p>　　→そのため、スペインはイギリスに１５８８年に無敵艦隊（アルマダ）を送った</p>
<p>　　　＝しかし、スペインは結果的にイギリス海軍に敗れて、制海権を失うことになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※その後もスペインはオランダを奪い返そうとして努力していた</p>
<p>　　　→一方でオランダは、バルト海での中継貿易で富を蓄えた</p>
<p>　　　→そして、１６０２年に東インド会社を設立して</p>
<p>　　　　東南アジアにまで貿易網を広げ、国力を強めた</p>
<p>　　　→結果的に、１６０９年の休戦条約で独立を事実上勝ち取った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　＝これら一連の流れを、オランダ独立戦争という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　</p>
<p>　　→その後は、オランダのアムステルダムが、フランドルの</p>
<p>　　　アントウェルペン（アントワープ）にかわって国際金融の中心となった</p>
<p>　　　※１７世紀の前半には、オランダで学芸も盛んになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・独立するオランダについておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/925">独立するオランダについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/925/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/925" />
	</item>
		<item>
		<title>植民地としてのインド社会について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/903</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/903#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 07:48:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[大きな魚]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代アジア史後期]]></category>
		<category><![CDATA[アヘン]]></category>
		<category><![CDATA[インド]]></category>
		<category><![CDATA[ザミンダーリー制]]></category>
		<category><![CDATA[ライヤットワーリー制]]></category>
		<category><![CDATA[東インド会社]]></category>
		<category><![CDATA[植民地]]></category>
		<category><![CDATA[産業革命]]></category>
		<category><![CDATA[綿布]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=903</guid>
		<description><![CDATA[植民地としてのインド社会について考えてみます &#160; &#160; ・植民地としてのインド社会について &#160; 　※イギリスが本格的な統治を始めた１９世紀前半のインド社会は、ものすごく沈んだ社会だった 　　  [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/903">植民地としてのインド社会について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>植民地としてのインド社会について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・植民地としてのインド社会について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※イギリスが本格的な統治を始めた１９世紀前半のインド社会は、ものすごく沈んだ社会だった</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・イギリス東インド会社は、産業革命によって力をつけてきたイギリス本国の産業資本の</p>
<p>　　圧力によって、特権を維持することが困難になった</p>
<p>　　→そのため、１８１３年にインドとの貿易独占を廃止された</p>
<p>　　→さらに、１８３３年に、残されていた茶との取引と中国貿易の独占権が廃止された</p>
<p>　　　＝そして、結果的に商業活動そのものの停止が決められた</p>
<p>　　　　※以上のようにして、東インド会社はインドの統治者に変身した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・植民地政府の最大の目的は、より多くの富を効率よく収奪することだった</p>
<p>　　→最大の収入源は地税だった</p>
<p>　　　※地税の徴収に関しては、ザミンダーリー制やライヤットワーリー制などが実施された</p>
<p>　　　　・ザミンダーリー制・・政府と農民との間を仲介する人に徴税を任せ、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　その仲介者に土地の所有権を与える制度</p>
<p>　　　　・ライヤットワーリー制・・仲介者を排除して農民（ライヤット）に土地所有権を与え、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　農民から直接税を徴収する制度のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・上のような土地制度の導入は、インド社会に深刻な影響を与えたと言われている</p>
<p>　　　</p>
<p>　　※導入以前のインド社会</p>
<p>　　　・一つの土地に対して、耕作者、洗濯人、床屋、大工などの様々な仕事をする人々が</p>
<p>　　　　権利を持っていた</p>
<p>　　　・権利を持っている人は、村の総生産の一部を得て生活していた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※導入後のインド社会</p>
<p>　　　・人々の中から１人だけが選ばれて土地所有者とされた</p>
<p>　　　・一方で、他の人々の権益は無視されるようになった</p>
<p>　　　・今までの共同体的な人と人との関係が大きく変化することになった</p>
<p>　　　・税額がきわめて重かったため、人々は苦しい生活を強いられた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・インドが世界に誇っていた綿布の生産でも、以下のようなことが起きた</p>
<p>　　→・産業革命以後、イギリス製の機械製綿布が流入してインド製品を圧倒し始めた</p>
<p>　　　・１８１０年代の終わりには、輸出と輸入の割合が逆転した</p>
<p>　　　　＝インドは、綿花、藍、アヘンなどの一次産品を輸出し、</p>
<p>　　　　　イギリスから製品を輸入する立場に転落した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・植民地としてのインド社会の様子についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/903">植民地としてのインド社会について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/903/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/903" />
	</item>
		<item>
		<title>西ヨーロッパ勢力の進出とインドの植民地化について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/902</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/902#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 07:42:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[大きな魚]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代アジア史後期]]></category>
		<category><![CDATA[アウラングゼーブ帝]]></category>
		<category><![CDATA[インド]]></category>
		<category><![CDATA[オーストリア継承戦争]]></category>
		<category><![CDATA[パリ条約]]></category>
		<category><![CDATA[プラッシーの戦い]]></category>
		<category><![CDATA[マイソール戦争]]></category>
		<category><![CDATA[ムガル帝国]]></category>
		<category><![CDATA[ヴァスコ＝ダ＝ガマ]]></category>
		<category><![CDATA[七年戦争]]></category>
		<category><![CDATA[東インド会社]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=902</guid>
		<description><![CDATA[西ヨーロッパ勢力の進出とインドの植民地化について考えてみます &#160; &#160; ・西ヨーロッパ勢力の進出について &#160; 　※西欧の国々の進出までの流れについて 　　・西欧の勢力が進出する以前のインド洋世 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/902">西ヨーロッパ勢力の進出とインドの植民地化について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>西ヨーロッパ勢力の進出とインドの植民地化について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・西ヨーロッパ勢力の進出について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※西欧の国々の進出までの流れについて</p>
<p>　　・西欧の勢力が進出する以前のインド洋世界には、港市を結ぶネットワークが形成されていた</p>
<p>　　　→このネットワークでは、ムスリム商人やインド商人が活躍していた</p>
<p>　　・１５世紀の終わりにヴァスコ＝ダ＝ガマという人によってインドへの直接の航路が</p>
<p>　　　発見されるようになった</p>
<p>　　　→すると、ヨーロッパの商業勢力がインド洋世界への新たな参加者として登場した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・西ヨーロッパ勢力の動きとインドの植民地化について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ヨーロッパの商業勢力の活動が本格化する１７世紀から１８世紀にかけてのインドは、</p>
<p>　　商品経済の発展を背景に、各地で政治経済活動が活発化し、</p>
<p>　　地方政権が力をつけていった時期だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・オランダ、イギリス、フランスなど、ヨーロッパ各国の東インド会社が、</p>
<p>　　以下のようなことを行っていた</p>
<p>　　→・ヨーロッパで需要が大きかったインド産の綿布の獲得を目指していた</p>
<p>　　　・そこで、インドに各地に着々と商館を建設し、商業活動を拡大した</p>
<p>　　　・その対価として、インドへ金や銀を大量に持ち込んできた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　＝このような、綿布を中心の輸出商品とする対外交易の拡大と、大量の金や銀の流入は、</p>
<p>　　　農業生産物を現物で分配するということを基礎として成り立ってきたという</p>
<p>　　　今までのインド経済の構造に大きな変化をもたらす要因になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・地方政権の台頭に悩まされていたアウラングゼーブ帝が１８世紀の初めに死去する</p>
<p>　　ということが起きた</p>
<p>　　→すると、ムガル帝国は支配領域をまとめていく政治的な力を急速に失っていった</p>
<p>　　　＝結果的に、ムガル帝国は名目的な存在になっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・一方で、地方の様々な勢力は、独立性をさらに高めていった</p>
<p>　　※そのため、お互いに軍事的な抗争を繰り返すようになっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ヨーロッパの国々のうち、イギリスとフランスの両方の東インド会社は、</p>
<p>　　１８世紀にはいってからも活発な商業活動を続けていた</p>
<p>　　→両方の東インド会社は、これらの抗争に関わらないでいつづけることが出来ず、</p>
<p>　　　だんだんと抗争に巻き込まれていった</p>
<p>　　　※さらに、両方の東インド会社は、インドとは無関係のヨーロッパでの対立を</p>
<p>　　　　持ち込むこともあった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→上のような対立の例として、以下のようなものがある</p>
<p>　　　・１８世紀のなかばに、インド南部のカーナティックと呼ばれた地域を舞台に、</p>
<p>　　　　オーストリア継承戦争や七年戦争と関連してイギリス、フランス、インドなどの</p>
<p>　　　　地方勢力が入り乱れて繰り広げられた戦争</p>
<p>　　　・インド東部でベンガル地方政権とフランスとの連合勢力がイギリスと抗争した</p>
<p>　　　　１７５７年のプラッシーの戦い</p>
<p>　　　　＝結局、軍事力と資金力が高かったイギリスは、１７６３年のパリ条約で</p>
<p>　　　　　インドでのイギリスとフランスとの戦いに決着をつけた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→イギリスは、他のような争いも起きた</p>
<p>　　　・インドの様々な勢力に対して、１７６５年にイギリスは東部でベンガルとビバールの</p>
<p>　　　　両方の地域の徴税権を獲得して、財政基盤を確保した</p>
<p>　　　・南部で４回にわたるマイソール戦争、西部でのマラーター戦争、</p>
<p>　　　　西北部でのシク王国との戦争でイギリスはそれぞれ勝利をおさめた</p>
<p>　　　　＝結果的にイギリスは、１９世紀の半ばにインド全域を支配することに成功した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　＝以上のような流れを受けてイギリスは、一部は藩王国として間接統治とし、</p>
<p>　　　他は直接支配するという体制を作った</p>
<p>　　　※この体制によって、インドの政治的植民地化を完成させたと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・西欧の国々の進出についておさえる</p>
<p>・イギリスがインドを支配するまでの流れをおさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/902">西ヨーロッパ勢力の進出とインドの植民地化について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/902/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/902" />
	</item>
	</channel>
</rss>
