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	<title>アラエス &#187; 自由民権運動</title>
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	<description>－全ての人に学びの空間を－</description>
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	<item>
		<title>自由民権運動の時の動きをまとめてみた</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/2428</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/2428#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 26 Jan 2014 21:03:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[橋本真夜中]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[明治時代前期]]></category>
		<category><![CDATA[国会期成同盟]]></category>
		<category><![CDATA[大隈重信]]></category>
		<category><![CDATA[板垣退助]]></category>
		<category><![CDATA[民撰議院設立建白書]]></category>
		<category><![CDATA[立憲改進党]]></category>
		<category><![CDATA[自由党]]></category>
		<category><![CDATA[自由民権派]]></category>
		<category><![CDATA[自由民権運動]]></category>

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		<description><![CDATA[征韓論を批判されて出て行った板垣退助などは、1874年に民撰議院設立建白書を政府に出した ※この提出によって、政府の方法が少数の政治家による専制政治だと非難して、板垣退助などは民撰議院（国会）を開くべきだと主張した →こ [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/2428">自由民権運動の時の動きをまとめてみた</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>征韓論を批判されて出て行った<strong>板垣退助</strong>などは、1874年に<strong>民撰議院設立建白書</strong>を政府に出した</p>
<p>※この提出によって、政府の方法が少数の政治家による専制政治だと非難して、板垣退助などは民撰議院（国会）を開くべきだと主張した</p>
<p>→ここから、<strong>自由民権運動</strong>（議会政治の実現を目指す運動）が始まった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>政府は、1879年に全国一斉に府県の議会を開き、地方政治に国民が参加できるようにした</p>
<p>※この時に、自由民権運動が都市の知識人、豪農（地方の有力な農民）、地主などに広まった</p>
<p>→そのため、1880年に、数十の自由民権派の代表が大阪に集まって、<strong>国会期成同盟</strong>を作って、国会を開設するように求めた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>政府は、1881年に国会の開設の準備を進めた</p>
<p>※この時に、２つのことが起きた</p>
<p>・イギリス流の政党政治を始めるように政府の中で主張していた<strong>大隈重信</strong>をやめさせた</p>
<p>・国会を1890年に開くことを天皇の名前で約束した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・1881年に、国会期成同盟を中心に板垣退助をトップとする<strong>自由党</strong>が結成された</p>
<p>・1882年に、都市の民権派を中心に大隈重信をトップとする<strong>立憲改進党</strong>が結成された</p>
<p>※両方とも自由民権派だった</p>
<p>→そこで政府は、法律を作って自由民権派を取り締まった</p>
<p>→政府は同時に、<strong>自由民権派</strong>の人々に政府の役職を与えて、自由民権運動の勢いを弱めた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>1882年に、日本が不景気になって、農民の生活が苦しくなった</p>
<p>※自由党の中には、実力で政府と戦おうとして、各地で自由民権派の激化事件を起こした（福島事件、秩父事件など）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>一方で、自由民権派の急進的なスタンスを嫌って、自由民権運動から離れる人も増えた</p>
<p>※実際に、1884年に自由党は解散し、立憲改進党の活動もほとんどなくなった</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/2428">自由民権運動の時の動きをまとめてみた</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>憲法の歴史について①　－明治憲法について－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1812</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1812#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 17 Nov 2013 08:28:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[副店長]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本国憲法]]></category>
		<category><![CDATA[大日本帝国憲法]]></category>
		<category><![CDATA[帝国議会]]></category>
		<category><![CDATA[明治維新]]></category>
		<category><![CDATA[枢密院]]></category>
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		<category><![CDATA[民定憲法]]></category>
		<category><![CDATA[法律の留保]]></category>
		<category><![CDATA[統帥権の独立]]></category>
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		<description><![CDATA[明治憲法について考えてみます &#160; &#160; ・明治憲法について &#160; 　※前提として、明治維新の後、日本で様々な憲法の案（私擬憲法）が作られたことを 　　押さえておく必要がある 　　→当時は、憲法を [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1812">憲法の歴史について①　－明治憲法について－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>明治憲法について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・明治憲法について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※前提として、明治維新の後、日本で様々な憲法の案（私擬憲法）が作られたことを</p>
<p>　　押さえておく必要がある</p>
<p>　　→当時は、憲法をもとにして政治を行っていた</p>
<p>　　　＝このように、憲法にもとづいてにして政治を行う事を、立憲主義という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※明治維新の後の憲法に関する動きとして、自由民権運動という運動が活発だった</p>
<p>　　・自由民権運動・・国民の自由と権利、国会の開設、憲法の制定などを求めた運動のこと</p>
<p>　　</p>
<p>　　→自由民権運動を抑えること、明治維新以降の国の体制を整えること、などの目的から、</p>
<p>　　　国会を開設することと憲法を作ることを急いだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８８９年（明治２２年）に、明治天皇によって大日本帝国憲法（明治憲法）が制定された</p>
<p>　　※大日本帝国憲法は欽定憲法だった（反対を民定憲法と言う）</p>
<p>　　　・欽定憲法・・君主（天皇や王様など、その国で最も位の高い人のこと）が</p>
<p>　　　　　　　　　　決めた憲法のこと</p>
<p>　　　・民定憲法・・国民が決めた憲法のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・大日本帝国憲法では、基本的人権や社会契約説などの考え方はなく、</p>
<p>　　「臣民の権利」という考え方だった</p>
<p>　　※臣民の権利は、基本的人権のように生まれながらに平等という感覚ではなかった</p>
<p>　　　→そのため、臣民（天皇以外の国民）の権利というのは、</p>
<p>　　　　法律で制限される部分があった</p>
<p>　　　　＝このような状態を、法律の留保と呼んだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・立法、行政、司法の権利は、統治権を全て引き受けている人（＝天皇）の名前で使われた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・外交権や統帥権は天皇大権（天皇が使えた権利のこと）だった</p>
<p>　　※特に、統帥権（軍の最高指揮権のこと）に関しては議会や内閣が</p>
<p>　　　意見することができなかった</p>
<p>　　　＝そのため統帥権は、統帥権の独立と言われた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・明治憲法では、天皇の直接的な支配が基本だったが・・・</p>
<p>　　・立法権は、帝国議会の協賛（帝国議会が同意の意思を表示すること）によって</p>
<p>　　　実際に使われた</p>
<p>　　・行政権は、国務大臣の輔弼（天皇が行政を行う時に助言すること）によって</p>
<p>　　　実際に使われた</p>
<p>　　・帝国議会の衆議院を通じて、臣民が政治に参加出来た</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>　・一方で・・</p>
<p>　　・衆議院とほぼ同じような権限を持っていた貴族院によって、</p>
<p>　　　衆議院の力が抑えつけられていた</p>
<p>　　・枢密院や軍部などが強い力を持っていた</p>
<p>　　　→以上のように、明治憲法のもとでは、複雑で自分達の権限を守りながら</p>
<p>　　　　勢力を拡大する仕組みがあった</p>
<p>　　　※枢密院・・天皇の最高諮問機関（天皇が意見を聞くための人達の中で、</p>
<p>　　　　　　　　　最も位の高い機関のこと）であり、国務の審議を行った</p>
<p>　　　　　　　　　また、枢密院は政党や議会政治の監視なども行った</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1812">憲法の歴史について①　－明治憲法について－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>日本国憲法の基本的な内容について①　－日本国憲法以前の明治憲法について－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1681</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1681#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 15 Nov 2013 13:56:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[パワフルくん]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本国憲法]]></category>
		<category><![CDATA[大日本帝国憲法]]></category>
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		<category><![CDATA[臣民の権利]]></category>
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		<description><![CDATA[日本国憲法の内容のために、最初に日本国憲法の前の明治憲法について考えておきます &#160; &#160; ・明治憲法について &#160; 　※明治維新の後、日本で様々な憲法の案（私擬憲法）が作られた 　　→当時は、憲 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1681">日本国憲法の基本的な内容について①　－日本国憲法以前の明治憲法について－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>日本国憲法の内容のために、最初に日本国憲法の前の明治憲法について考えておきます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・明治憲法について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※明治維新の後、日本で様々な憲法の案（私擬憲法）が作られた</p>
<p>　　→当時は、憲法をもとにして政治を行っていた</p>
<p>　　　＝このように、憲法にもとづいてにして政治を行う事を、立憲主義という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※明治維新の後の憲法に関する動きとして、自由民権運動という運動が活発だった</p>
<p>　　・自由民権運動・・国民の自由と権利、国会の開設、憲法の制定などを求めた運動のこと</p>
<p>　　</p>
<p>　　→自由民権運動を抑えること、明治維新以降の国の体制を整えること、などの目的から、</p>
<p>　　　国会を開設することと憲法を作ることを急いだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８８９年（明治２２年）に、明治天皇によって大日本帝国憲法（明治憲法）が制定された</p>
<p>　　※大日本帝国憲法は欽定憲法だった（反対を民定憲法と言う）</p>
<p>　　　・欽定憲法・・君主（天皇や王様など、その国で最も位の高い人のこと）が</p>
<p>　　　　　　　　　　決めた憲法のこと</p>
<p>　　　・民定憲法・・国民が決めた憲法のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・大日本帝国憲法では、基本的人権や社会契約説などの考え方はなく、</p>
<p>　　「臣民の権利」という考え方だった</p>
<p>　　※臣民の権利は、基本的人権のように生まれながらに平等という感覚ではなかった</p>
<p>　　　→そのため、臣民（天皇以外の国民）の権利というのは、法律で制限される部分があった</p>
<p>　　　　＝このような状態を、法律の留保と呼んだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・立法、行政、司法の権利は、統治権を全て引き受けている人（＝天皇）の名前で使われた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・外交権や統帥権は天皇大権（天皇が使えた権利のこと）だった</p>
<p>　　※特に、統帥権（軍の最高指揮権のこと）に関しては議会や内閣が</p>
<p>　　　意見することができなかった</p>
<p>　　　＝そのため統帥権は、統帥権の独立と言われた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・明治憲法では、天皇の直接的な支配が基本だったが・・・</p>
<p>　　・立法権は、帝国議会の協賛（帝国議会が同意の意思を表示すること）に</p>
<p>　　　よって実際に使われた</p>
<p>　　・行政権は、国務大臣の輔弼（天皇が行政を行う時に助言すること）に</p>
<p>　　　よって実際に使われた</p>
<p>　　・帝国議会の衆議院を通じて、臣民が政治に参加出来た</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>　・一方で・・</p>
<p>　　・衆議院とほぼ同じような権限を持っていた貴族院によって、</p>
<p>　　　衆議院の力が抑えつけられていた</p>
<p>　　・枢密院や軍部などが強い力を持っていた</p>
<p>　　　→以上のように、明治憲法のもとでは、複雑で自分達の権限を守りながら</p>
<p>　　　　勢力を拡大する仕組みがあった</p>
<p>　　　※枢密院・・天皇の最高諮問機関（天皇が意見を聞くための人達の中で、</p>
<p>　　　　　　　　　最も位の高い機関のこと）であり、国務の審議を行った</p>
<p>　　　　　　　　　また、枢密院は政党や議会政治の監視なども行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・明治憲法から日本国憲法に入るまでの流れについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・最初、明治憲法の時に複雑な政党政治を動かしていたのは</p>
<p>　　元老（憲法には書かれていなかったが、政治の事務的な部分の決定や、</p>
<p>　　首相の決定などに関して力のあった人）だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>　　→大正時代になると、護憲運動などの影響で政党の力が強くなってきた</p>
<p>　　　※護憲運動・・その当時の官僚の内閣などを潰して、</p>
<p>　　　　　　　　　　政党内閣を作ろうとした運動のこと</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　→第一次世界大戦（１９１４～１９１８）の後には、</p>
<p>　　　世界的に民主主義の雰囲気が強くなっていった</p>
<p>　　　＝その影響で大正から昭和にかけて、「憲政の常道」として</p>
<p>　　　　政党内閣と政権政治が中心となった</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　→大正には、大正デモクラシーという運動が起き、</p>
<p>　　　天皇機関説や民本主義が大正デモクラシーの後押しをしたと言われる</p>
<p>　　　※・大正デモクラシー・・民主主義を目指す運動のこと</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　　・天皇機関説・・天皇を国家の機関だとする考え方のこと</p>
<p>　　　　　　　　　　　　美濃部達吉によって提唱されたが、右翼などに攻撃されたため、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　著書は発売禁止となり、結果的に美濃部達吉は</p>
<p>　　　　　　　　　　　　貴族院の議員を辞職することになってしまった</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　　・民本主義・・天皇を主権にした上で、民主主義の実現を目指す考え方のことで、</p>
<p>　　　　　　　　　　　吉野作造と言う人が主張した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　→このような流れを受けて、１９２５年になると、</p>
<p>　　　普通選挙制度（普通選挙法）と治安維持法が成立した</p>
<p>　　　※・普通選挙制度（普通選挙法）・・満２５歳以上の男子全員に</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　選挙権が与えられた制度のこと</p>
<p>　　　　・治安維持法・・共産主義のための運動を制限して、資本主義や天皇主権以外の</p>
<p>　　　　　　　　　　　　考え方を取り締まる法律のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→１９２９年の世界恐慌以降、経済や社会などに対して日本国内での不安が増えてきた</p>
<p>　　　すると、天皇が統帥権を使って軍部を動かし、軍部の力が強くなり、</p>
<p>　　　軍部を使おうとしたため、大陸を侵略するようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　</p>
<p>　　→１９３２年には、五・一五事件が、１９３６年には、二・二六事件が起こり、</p>
<p>　　　世界各地が第二次世界大戦へ向かった　</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・明治憲法の概要を押さえる</p>
<p>・明治憲法から、日本国憲法に入るまでの流れを押さえる</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1681">日本国憲法の基本的な内容について①　－日本国憲法以前の明治憲法について－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>近現代の日本の思想のスタート　－文明開化と啓蒙思想と自由民権運動－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1635</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1635#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 14 Nov 2013 20:10:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[マイコ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本思想後期　－近現代－]]></category>
		<category><![CDATA[中江兆民]]></category>
		<category><![CDATA[啓蒙思想]]></category>
		<category><![CDATA[天賦人権説]]></category>
		<category><![CDATA[文明開化]]></category>
		<category><![CDATA[明六社]]></category>
		<category><![CDATA[神仏分離令]]></category>
		<category><![CDATA[祭政一致]]></category>
		<category><![CDATA[福沢諭吉]]></category>
		<category><![CDATA[脱亜論]]></category>
		<category><![CDATA[自由民権運動]]></category>

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		<description><![CDATA[近現代の思想のスタートである、文明開化、啓蒙思想、福沢諭吉、自由民権運動の部分を考えます &#160; &#160; ・文明開化について 　・文明開化の時の明治政府の動き 　　→・明治政府は、富国強兵を目指して、近代の西 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1635">近現代の日本の思想のスタート　－文明開化と啓蒙思想と自由民権運動－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>近現代の思想のスタートである、文明開化、啓蒙思想、福沢諭吉、自由民権運動の部分を考えます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・文明開化について</p>
<p>　・文明開化の時の明治政府の動き</p>
<p>　　→・明治政府は、富国強兵を目指して、近代の西洋の技術や社会制度、</p>
<p>　　　　生活様式などを取り入れていこうとした</p>
<p>　　　・祭政一致を提唱し、神仏分離令を出し、神仏習合を廃止した</p>
<p>　　　　→それによって、仏教から分離させた神道を新しく国教（国家神道）だとした</p>
<p>　　　・廃仏毀釈によって、神社の仏像や寺の神殿などが取り壊され、</p>
<p>　　　　人々の文化に大きな変化を与えた</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　※・祭政一致・・祭祀と政治は一致しているべきである、という考え方のこと</p>
<p>　　　　・神仏分離令・・神仏習合を禁止し、神道と仏教をはっきり区別すること</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・啓蒙思想について</p>
<p>　・啓蒙思想（理性を使って、人々の思考を共通に進歩させるための考え方のこと）の</p>
<p>　　日本の普及ために、多くの人が考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・福沢諭吉（後でも登場）・・「学問のすゝめ」「文明論之概略」を書いた</p>
<p>　・中村正直・・「西国立志論」「自由之理」を書き、功利主義、自由主義を紹介した</p>
<p>　・森有礼・・一夫一妻制を提唱した</p>
<p>　・西周・・西洋哲学の移入のために努力し、多くの訳語を作った</p>
<p>　・加藤弘之・・立憲政治の制度を紹介した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→この人達は、他に何人かを加え、明六社を作った</p>
<p>　　その時に、「明六雑誌」を作って、幕藩体制やその当時の道徳を批判した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・福沢諭吉について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・福沢諭吉は、近代の西洋にあった自然権の考え方にもとづいて、</p>
<p>　　「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」と考えた</p>
<p>　　→人々は生まれながらに平等で、他者の邪魔をしなければ、</p>
<p>　　　自分の力で自由に安定した人生を送る権利を</p>
<p>　　　天から賦与されている（与えられている）と考えた</p>
<p>　　　＝このような考え方を天賦人権説と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・福沢諭吉は、文明の重要な部分は、外から目で見える形にして表現したものではなく</p>
<p>　　独立自尊の精神だと考えた</p>
<p>　　→福沢諭吉は、東洋の儒教に無くて、西洋の文明にあるものは、</p>
<p>　　　数理学と独立心だと考えた</p>
<p>　　　※数理学・・実証的、合理的かつ、実用的、実利的な学問のこと</p>
<p>　　　→そこで福沢諭吉は、独立自尊の生活のためには、</p>
<p>　　　　「日常に役立つ実学」が必要だと考えた</p>
<p>　　　　※だから、数理学を提唱した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・福沢諭吉は、人々に独立自尊の精神が生まれないと、日本の独立は無いと考えた</p>
<p>　　＝「一身独立して一国独立す」と考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時は、政府が尊重され、人々が見下されている風潮があった</p>
<p>　　そこで福沢諭吉は、このような空気を変えるために、脱亜論を提唱した</p>
<p>　　※脱亜論・・野蛮なアジアを抜け出して、</p>
<p>　　　　　　　　西洋諸国の仲間入りをするべきだという考え方</p>
<p>　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・自由民権運動について</p>
<p>　</p>
<p>　・自由民権運動に関係した人達として、中江兆民と植木枝盛がいる</p>
<p>　　※福沢諭吉を中心とした啓蒙思想家は、イギリスの功利主義、経験論の影響を</p>
<p>　　　受けているという前提がある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・中江兆民－・「民約訳解」（ルソーの「社会契約論」という本の翻訳したもの）と</p>
<p>　　　　　　　　「三酔人経綸問答」などを書いた</p>
<p>　　　　　　　・民権（人民の権利、人民が政治に参加する権利のこと）は</p>
<p>　　　　　　　　「恩賜的民権」と「恢復的民権」の２種類があると考えた</p>
<p>　　　　　　　　※・「恩賜的民権」・・政治を行う人が人々に与える民権のこと</p>
<p>　　　　　　　　　・「恢復的民権」・・人々が自ら獲得する民権のこと</p>
<p>　　　　　　　　→中江兆民は、日本は「恩賜的民権」を育てて、</p>
<p>　　　　　　　　　「恢復的民権」を目指すべきだと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・植木枝盛－・どんな政府であろうと、政府が民権を妨げる時は、</p>
<p>　　　　　　　　人々は政府に対抗する権利を持っていると考えた</p>
<p>　　　　　　　　→そのため、民権は国権とは反対の立場にあると考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・中江兆民らの考え方を自由民権論と言い、この自由民権論は、</p>
<p>　　啓蒙思想と一緒に自由民権運動に影響を与えた</p>
<p>　　※自由民権運動では、藩閥打破や国会開設の要求などをしていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・文明開化の時の明治政府の動きをおさえる</p>
<p>・啓蒙思想については、福沢諭吉、中村正直、森有礼、西周、加藤弘之らが考えた</p>
<p>・福沢を中心に明六社を作って、明六雑誌を発刊した</p>
<p>・福沢諭吉は、天賦人権説、独立自尊の精神、脱亜論などを考えた</p>
<p>・中江兆民は、恩賜的民権と恢復的民権を提唱した</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1635">近現代の日本の思想のスタート　－文明開化と啓蒙思想と自由民権運動－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<title>明治時代の近代文学とジャーナリズムについて</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1280</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1280#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 28 Oct 2013 03:30:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[副店長]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[明治時代後期]]></category>
		<category><![CDATA[ロマン主義文学]]></category>
		<category><![CDATA[仮名垣魯文]]></category>
		<category><![CDATA[夏目漱石]]></category>
		<category><![CDATA[大新聞]]></category>
		<category><![CDATA[小新聞]]></category>
		<category><![CDATA[明六雑誌]]></category>
		<category><![CDATA[矢野竜渓]]></category>
		<category><![CDATA[石川啄木]]></category>
		<category><![CDATA[自然主義]]></category>
		<category><![CDATA[自由民権運動]]></category>

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		<description><![CDATA[明治時代の近代文学とジャーナリズムについて考えてみます &#160; &#160; ・当時の近代文学とジャーナリズムについて &#160; 　 　※１８８０年～１８９０年代にかけて、自由民権運動やアジアの状況、条約の改正 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1280">明治時代の近代文学とジャーナリズムについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>明治時代の近代文学とジャーナリズムについて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・当時の近代文学とジャーナリズムについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　※１８８０年～１８９０年代にかけて、自由民権運動やアジアの状況、条約の改正など</p>
<p>　　様々な問題について世論が盛り上がるようになっていった</p>
<p>　　→この状況で、大新聞という政治評論を中心とした新聞が大量に出てきた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・大新聞は、それぞれが自分達なりの政治的な主張を持っていて、</p>
<p>　　政治の考え方について国民に大きな影響を与えた</p>
<p>　　※大新聞には、専属の担当者や寄稿する人などを用意した場合もあり、</p>
<p>　　　近代文学の育成と普及を担当したと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・一方で、昔からの瓦版の伝統を引き継ぐ小新聞というのもあり、</p>
<p>　　報道や娯楽などが中心の大衆向けのものだった</p>
<p>　　※小新聞は、戯作文学という大衆文芸の盛りあがりに貢献したと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・明治初期に出た「明六雑誌」という雑誌をスタートに、</p>
<p>　　「国民之友」や「日本人」など、本格的な雑誌の発達が進んでいった</p>
<p>　　→明治時代の後期には、「太陽」や「中央公論」などの、</p>
<p>　　　総合雑誌という雑誌が作られるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・文学の分野では、江戸時代から出てきた戯作文学という大衆文学が、</p>
<p>　　明治時代に入っても人気だった</p>
<p>　　※戯作文学では、仮名垣魯文という人の「安愚楽鍋」などの作品がある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・自由民権論や国権論などを宣伝することを目的に、政治運動をする人達が</p>
<p>　　政治小説を書いた</p>
<p>　　※代表的な政治小説に、矢野竜渓という人の「経国美談」や東海散士という人の</p>
<p>　　　「佳人之奇遇」などの小説がある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・戯作文学や政治小説に対して、坪内逍遥という人が「小説神髄」という評論を発表した</p>
<p>　　→この中で、西洋の文芸の理論を取り入れて、人間の内面や社会を</p>
<p>　　　客観的または写実的に描くことを提唱した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※坪内逍遥に影響を受けた人が何人かいた</p>
<p>　　　・二葉亭四迷という人が「浮雲」という作品を言文一致体というスタイルで書いた</p>
<p>　　　　→この作品は、坪内逍遥の考えを実際に行ったものだと言われている</p>
<p>　　　・尾崎紅葉や山田美妙などの硯友社という団体は、</p>
<p>　　　　回覧雑誌の「我楽多文庫」という雑誌を作り、写実主義を掲げつつ、</p>
<p>　　　　文芸小説を大衆化させようとした</p>
<p>　　　・幸田露伴という人が、坪内逍遥の内面主義を重視して、</p>
<p>　　　　東洋の哲学を土台にした理想主義のような作品を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日清戦争の前後に、啓蒙主義や合理主義に反発する形で</p>
<p>　　ロマン主義文学というのが出てきた</p>
<p>　　※ロマン主義文学・・感情や個人の動きなどを重視する文学のこと</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ロマン主義のスタートは、北村透谷という人などが作った「文学界」という雑誌だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※ロマン主義の影響によって、どのような作品が出てきたのか</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・森鴎外や泉鏡花などの人達がロマン主義を受けて小説を書いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・島崎藤村という人が「若菜集」という詩集で、新詩体という詩体を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・与謝野晶子という人が、夫の与謝野鉄幹という人が</p>
<p>　　　　主宰していた「明星」という雑誌に情熱的な短歌を載せた</p>
<p>　　　　※「明星」じゃ、ロマン主義の中心的な存在になったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・樋口一葉という人が、底辺の女性の悲しさをいくつかの小説に描いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　</p>
<p>　・正岡子規という人が、俳句の革新と万葉調の和歌の復活をさせようとしたため、</p>
<p>　　伝統文化の革新ということで注目された</p>
<p>　　※正岡子規は１８９７年に俳句雑誌の「ホトトギス」を出し、</p>
<p>　　　その後は高浜虚子という人が受け継いだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・正岡子規の弟子だった伊東左千夫や長塚節などの人が和歌で出てきて、</p>
<p>　　１９０８年に「アララギ」という短歌雑誌を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日清戦争後に、徳冨蘆花（徳富蘇峰の弟）という人が社会小説を書いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日露戦争の前後に、フランスやロシアにあった自然主義文学という文学の</p>
<p>　　影響を受けるようになった</p>
<p>　　→そのため、自然主義（社会の暗く重い現実をありのままに描く主義のこと）が</p>
<p>　　　文学で中心になった</p>
<p>　　　※その時に、国木田独歩、田山花袋、島崎藤村、徳田秋声などの作家が出てきた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・石川啄木という人は、ロマン主義からスタートしたものの、</p>
<p>　　後で社会主義の考え方を取り入れた生活詩というものをうたった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・自然主義に対抗する形で、いくつかの作品が出てきた</p>
<p>　　→夏目漱石という人は、知識人の内面や生活を、国家や社会との関係で</p>
<p>　　　とらえようとした</p>
<p>　　→森鴎外という人は、歴史小説を出した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・文芸作品の批評が新聞や雑誌に載るようになった</p>
<p>　　→そのため、作家だけでなく、批評家も重要な存在になってきた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・当時の文学の状況を押さえる</p>
<p>・当時のジャーナリズムの様子を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>　　</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1280">明治時代の近代文学とジャーナリズムについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>自由民権運動について③</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1257</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1257#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 27 Oct 2013 22:20:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[副店長]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[明治時代中期]]></category>
		<category><![CDATA[三大事件建白運動]]></category>
		<category><![CDATA[保安条例]]></category>
		<category><![CDATA[加波山事件]]></category>
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		<category><![CDATA[福島事件]]></category>
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		<category><![CDATA[立憲改進党]]></category>
		<category><![CDATA[自由民権運動]]></category>
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		<description><![CDATA[自由民権運動について、民権運動が激しくなっていった時期について考えてみます &#160; &#160; ・自由民権運動について &#160; &#160; 　・松方財政の行動によって、民権運動に以下のような影響を与えた  [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1257">自由民権運動について③</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>自由民権運動について、民権運動が激しくなっていった時期について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・自由民権運動について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・松方財政の行動によって、民権運動に以下のような影響を与えた</p>
<p>　　→・自由民権運動の支持者だった地主や農民の中で、生活が苦しくなって</p>
<p>　　　　運動に参加してる余裕がない人が民権運動をやらなくなっていった</p>
<p>　　　・逆に、同じ事情で早く民権運動が進んでより良い生活になることを求めて、</p>
<p>　　　　積極的に民権運動に参加する人も出てきた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８８２年に、集会条例という条例を改正した</p>
<p>　　→その結果、政党の支部を作ることを禁止したものの、</p>
<p>　　　一方で自由党の板垣退助の留学の援助などを行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※ゆっくりと民権運動が展開することを期待していた伊藤博文や井上馨などは、</p>
<p>　　　　裏で三井から留学の費用を出させて、自由党の板垣退助や後藤象二郎などを</p>
<p>　　　　留学させた</p>
<p>　　　　→この時に、立憲改進党が留学の費用がどこから出ているのかを突き止めて</p>
<p>　　　　　指摘したが、自由党側は大隈重信と三菱の関係を指摘することで反撃をした、</p>
<p>　　　　　という背景がある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・板垣退助の留学は、立憲改進党からだけでなく、自由党の内部からも批判された</p>
<p>　　→そのため、板垣退助が民権運動を仕切ることが出来なくなり、</p>
<p>　　　仕切る人がいなくなってしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・一方で、政府の行動や増税政策などに反発する農民や自由党の党員が、</p>
<p>　　以下のような直接的な行動を起こした</p>
<p>　</p>
<p>　　→・１８８２年に福島事件という最初の事件が起きた</p>
<p>　　　　※福島事件・・福島の県令だった三島通庸という人が不況にも関わらず、</p>
<p>　　　　　　　　　　　農民に労役を命令して県道を作ろうとしたことに対して</p>
<p>　　　　　　　　　　　農民が抵抗した事件のこと</p>
<p>　　　　　　　　　　　→三島通庸はこの事件を口実にして、河野広中などの</p>
<p>　　　　　　　　　　　　福島の自由党員を検挙している</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・その後、北陸や東北で、加波山事件、高田事件、群馬事件などの事件が次々と起きた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・１８８４年に埼玉県の秩父で、困民党という名前で約３０００人の農民が</p>
<p>　　　　増え続ける自分達の借金の減免を求めて、高利貸、郡役所、警察などを襲った</p>
<p>　　　　→そのため、政府は軍隊まで使って困民党の行動を鎮圧させた</p>
<p>　　　　　＝この出来事を秩父事件という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・上のような事件は、全てが自由党の指導ではなかった</p>
<p>　　※しかし、党員の結束力に自身を失い、民権運動のための資金の不足ということも出てきた</p>
<p>　　　→そのため、加波山事件の後に自由党は政党を解散させた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※立憲改進党も、トップの大隈重信を中心とした指導者たちが党を離れるという事が起きた</p>
<p>　　　→そのため、立憲改進党は事実上の解散ということになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８８５年に自由党の改革派だった大井憲太郎という人などが、朝鮮に行って、</p>
<p>　　朝鮮の保守的な政府を武力で倒そうとする計画を考えた</p>
<p>　　→しかし、大井憲太郎などは実行する前に事前に大阪で検挙されるという出来事が起きた</p>
<p>　　　＝この出来事を大阪事件という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→以上のような流れによって、民権運動は弱くなっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・しかし、国会の開設の時期が近づくと、民権派の中で再結集して</p>
<p>　　運動をするという計画が考えられた</p>
<p>　　→そこで、１８８７年に、後藤象二郎という人が大同団結を提唱した</p>
<p>　　　※大同団結運動・・自由党と立憲改進党が昔は対立していたが、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　国会を開設するという共通の目的はあったため、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　自由党と立憲改進党だった人達が一緒になって国会の開設を</p>
<p>　　　　　　　　　　　　求めようとする運動のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→さらに、大同団結側が井上馨という人の条約改正の失敗をきっかけに</p>
<p>　　　三大事件建白運動という運動を行った</p>
<p>　　　※三大事件建白運動・・地租の軽減、言論集会の自由、対等条約の締結の３つを</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　要求する運動のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→政府は、大同団結に対抗して１８８７年の終わりに政府が保安条例という条例を作った</p>
<p>　　　※保安条例・・大同団結を取り締まって、東京にいる民権派を</p>
<p>　　　　　　　　　　東京から追い出した条例のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→大同団結運動は、東京を追い出された後は東北を中心に続けた</p>
<p>　　　＝１８８９年の憲法の発布の時に、大同団結で政党を再び作る動きが出てきた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・自由民権運動の流れを押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1257">自由民権運動について③</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>自由民権運動について②</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1255</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1255#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 27 Oct 2013 22:11:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[副店長]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[明治時代中期]]></category>
		<category><![CDATA[伊藤博文]]></category>
		<category><![CDATA[国会期成同盟]]></category>
		<category><![CDATA[大隈重信]]></category>
		<category><![CDATA[明治十四年の政変]]></category>
		<category><![CDATA[欽定憲法]]></category>
		<category><![CDATA[立憲君主制]]></category>
		<category><![CDATA[自由党]]></category>
		<category><![CDATA[自由民権運動]]></category>
		<category><![CDATA[開拓使官有物払下げ事件]]></category>
		<category><![CDATA[集会条例]]></category>

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		<description><![CDATA[自由民権運動を前半と後半に分けて（今回は後半部分を）考えてみます &#160; &#160; ・自由民権運動について &#160; &#160; 　・１８７９年の終わりに行われた愛国社第３回大会の時に話し合いが行われて、 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1255">自由民権運動について②</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>自由民権運動を前半と後半に分けて（今回は後半部分を）考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・自由民権運動について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７９年の終わりに行われた愛国社第３回大会の時に話し合いが行われて、</p>
<p>　　１８８０年の第４回の時に愛国社を国会期成同盟という名前に変えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・国会期成同盟に参加したそれぞれの政社の代表が署名した天皇宛ての</p>
<p>　　国会開設請願書という願書を太政官や元老院に出そうとした</p>
<p>　　→政府は、国会開設請願書を認めないと同時に、４月に集会条例という条例を決めて、</p>
<p>　　　政社の活動を制限した</p>
<p>　　　※集会条例・・自由民権運動を抑えるために、集会や結社の自由を抑える条例のこと</p>
<p>　　　　政社・・民権運動の政治団体のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・国会期成同盟は、１８８０年１１月に第２回大会を東京で開いた</p>
<p>　　→しかし、国会期成同盟での自由民権運動の方針が決まらなかった</p>
<p>　　　＝そのため、１８８１年１０月にそれぞれが憲法の原案を持って集まることだけを</p>
<p>　　　　決めて終了してしまった</p>
<p>　　　　※終了した後に、一部の人達は集まって、自由主義政党を作ることを</p>
<p>　　　　　決めている人達もいた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・自由主義政党を作ることを決めていた人達によって、１８８１年に１０月に、板垣退助を</p>
<p>　　トップに置いた自由党という党が作られた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７８年に政府の最高実力者だった内務卿の大久保利通という人が暗殺される</p>
<p>　　という出来事が起きた</p>
<p>　　→大久保利通の暗殺後は、力のある指導者が存在せず、まとめる人がいなかったので、</p>
<p>　　　政府の中で内紛が起きた</p>
<p>　　　※大隈重信という人が、イギリスのような議院内閣制を日本にも早く取り入れるべき</p>
<p>　　　　だと考えて岩倉具視や伊藤博文と対立した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・政府が内紛でもめている時に、開拓使官有物払下げ事件という事件が起きた</p>
<p>　　→この事件によって、世論の政府に対する攻撃が激しくなった</p>
<p>　　　※開拓使官有物払下げ事件・・開拓使の長官だった黒田清隆という人が、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　開拓使の官有物を五代友厚という人などが関係する</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　関西貿易社に異常に安い価格で払い下げようとした</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　事件のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８８１年の１０月に、以下のようなことが起きた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・世論が政府を批判する状況を、大隈重信が作ったということで、</p>
<p>　　　大隈重信が政府をクビになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・欽定憲法の基本的な方針を決めた</p>
<p>　　　※欽定憲法・・天皇が決める憲法のこと</p>
<p>　　　　　　　　　　→反対に、国民の意見によって作られる憲法を、民定憲法という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・国会開設の勅諭（天皇が自分で国会の開設を決めた）が出た　</p>
<p>　　　※その時に、１８９０年までんび国会を開設することが決められた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　＝１８８１年に起きた以上のような出来事をまとめて、明治十四年の政変という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→明治十四年の政変によって、伊藤博文を中心とした薩長の藩閥政権が出来て、</p>
<p>　　　　立憲君主制（天皇が仕切るが、どう仕切るかは憲法に従うという体制）に</p>
<p>　　　　向けて準備が始まった</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・民間で、以下のような様々な憲法の原案が作られた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→・交詢社という政社が「私擬憲法案」という憲法案を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・植木枝盛という人が「東洋大日本国国憲按」という憲法案を作った</p>
<p>　　　　※植木枝盛の憲法案は、立志社が作った「日本憲法見込案」という</p>
<p>　　　　　憲法案と系統が似ていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・東京近くの農村青年のグループが五日市憲法草案という憲法案を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・自由民権については、以下のようなものも含めて多くの議論が行われた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→・中江兆民という人がルソーの「社会契約論」の一部を訳した</p>
<p>　　　　「民約訳解」という本を出した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・加藤弘之という人が、「人権新説」という本で、民権派の天賦人権説を批判した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・馬場辰猪という人が「天賦人権論」を、植木枝盛が「天賦人権弁」という本を</p>
<p>　　　　書いて加藤弘之に反論した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８８２年に、大隈重信をトップに置いてイギリスの議院内閣制を推奨する、</p>
<p>　　立憲改進党という党が作られた</p>
<p>　　→立憲改進党は、フランスのような自由主義を推奨して立志社や愛国社と</p>
<p>　　　系統が似ているという自由党と対立した</p>
<p>　</p>
<p>　　※自由党は農村の人々に支持され、立憲改進党は知識人や都市にいる</p>
<p>　　　実業家などに支持された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・自由党や立憲改新党などの動きに対して、政府側が福地源一郎という人を</p>
<p>　　トップに置いて立憲帝政党という保守的な党を作った</p>
<p>　　※しかし、立憲帝政党は民権派に対抗できるほどの力はなかった</p>
<p>　　　→そのため、１８８３年に立憲帝政党は無くなってしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・自由民権運動の動きを押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1255">自由民権運動について②</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<title>自由民権運動について①</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1254</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1254#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 27 Oct 2013 22:06:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[副店長]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[明治時代中期]]></category>
		<category><![CDATA[三新法]]></category>
		<category><![CDATA[愛国社]]></category>
		<category><![CDATA[新聞紙条例]]></category>
		<category><![CDATA[民権自由論]]></category>
		<category><![CDATA[漸次立憲政体樹立の詔]]></category>
		<category><![CDATA[立志社]]></category>
		<category><![CDATA[立憲制]]></category>
		<category><![CDATA[群区町村編成法]]></category>
		<category><![CDATA[自由民権論]]></category>
		<category><![CDATA[自由民権運動]]></category>

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		<description><![CDATA[自由民権運動を前半と後半に分けて（今回は前半部分を）考えてみます &#160; &#160; ・自由民権運動について &#160; &#160; 　・板垣退助などが民撰議院設立の建白書を提出したことがきっかけで、 　　自 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1254">自由民権運動について①</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>自由民権運動を前半と後半に分けて（今回は前半部分を）考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・自由民権運動について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・板垣退助などが民撰議院設立の建白書を提出したことがきっかけで、</p>
<p>　　自由民権論という考え方が急激に広まった</p>
<p>　　※自由民権論・・人間は元々自由で、政治に平等に参加する権利を持っている</p>
<p>　　　　　　　　　　という考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７４年に、板垣退助は自分のふるさとの土佐に帰って、片岡健吉を始めとした</p>
<p>　　板垣退助の考え方に賛同する人達を集めて、立志社という政社（政治的な団体）を作った</p>
<p>　　→次の年の１８７５年に、愛国社という政社を大阪に作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・一方で、政府は１８７５年に大久保利通、木戸孝允、板垣退助の３人で会議を行った</p>
<p>　　＝この会議を大阪会議という</p>
<p>　　　→大阪会議によって、ゆっくりと立憲制に移ることを決めた</p>
<p>　　　　※立憲制・・憲法に基づいて政治を行う制度のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・大阪会議の後、政府は以下のようなことを行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・１８７５年４月に漸次立憲政体樹立の詔を出した</p>
<p>　　　　※漸次立憲政体樹立の詔・・段々と立憲制の政治体制を目指す詔のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・元老院という立法諮問機関を作った</p>
<p>　　　　→元老院では、１８７６年から憲法の内容が作られ始めた</p>
<p>　　　　　※元老院の憲法の原案は、１８８０年に「日本国憲按」</p>
<p>　　　　　　という名前で完成したが、岩倉具視に反対されて結局無くなってしまった　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・大審院という、現在でいう最高裁判所を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・地方官会議という府知事と県令が担当している会議を設置した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・自由民権運動派が新聞や雑誌などで政府の批判を活発に行った</p>
<p>　　→そこで政府は、１８７５年６月に讒謗律と新聞紙条例という法律を作り、</p>
<p>　　　自由民権運動派の行動を取り締まった</p>
<p>　　　※・讒謗律・・名誉毀損や事実と違う悪い評判を公表することなどを</p>
<p>　　　　　　　　　　取り締まった法律のこと</p>
<p>　　　　・新聞紙条例・・新聞で政府を批判することを禁止した法律のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・政府は、地方をコントロールする制度を作るために、１８７８年に</p>
<p>　　三新法という法律を作った</p>
<p>　　→三新法によって、地方にある程度の世論を取り入れられるようになった</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　※・三新法・・郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則の３つの法律のこと</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　　・郡区町村編制法・・廃藩置県の後に、大区・小区という行政区画が行われたが、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　大区・小区をやめて郡・町・村という行政区画を</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　使うという法律のこと</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　　・府県会規則・・地方に府知事と県令の判断で公選制の民会が作られていたが、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　その民会を全国で認めて民会について全国で同じ規則を</p>
<p>　　　　　　　　　　　　採用するというもの</p>
<p>　　　　　　　　　　　　→この時に、部分的な審議権を府県会に与えた</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　　・地方税規則・・地方で扱っていた様々な税を地方税にまとめる規則のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・立志社は、西南戦争の時に片岡健吉をトップに置いて、</p>
<p>　　国会を開くことを求める意見書（立志社建白）を天皇に提出しようとした</p>
<p>　　→しかし、立志社建白は政府に却下された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・立志社の一部が反政府軍に参加しようとしたことがあった</p>
<p>　　→その時に自由民権運動の勢いが一時的に弱くなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・愛国社が解散状態にあることが分かった時があった</p>
<p>　　→そこで、１８７８年に愛国社を再び活発にさせる大会を行った</p>
<p>　　　＝この動きは、府県会の議員、都市の商工業者、地主などにも広がっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※１８７９年に、植木枝盛という人が「民権自由論」という本を出した</p>
<p>　　　→この本は、愛国社を再び活発にさせる大会の動きをより広げていく後押しをした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・自由民権運動の動きを押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1254">自由民権運動について①</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<title>明治政府への反乱について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1253</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1253#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 27 Oct 2013 21:22:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[トクホンクリーム]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[明治時代前期]]></category>
		<category><![CDATA[佐賀の乱]]></category>
		<category><![CDATA[地租改正反対一揆]]></category>
		<category><![CDATA[征韓論]]></category>
		<category><![CDATA[愛国公党]]></category>
		<category><![CDATA[明治六年の政変]]></category>
		<category><![CDATA[民撰議院設立の建白書]]></category>
		<category><![CDATA[神風連の乱]]></category>
		<category><![CDATA[自由民権運動]]></category>
		<category><![CDATA[血税一揆]]></category>
		<category><![CDATA[西南戦争]]></category>

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		<description><![CDATA[明治時代初期に起きた明治政府への反乱について考えてみます &#160; &#160; ・明治政府への反乱について &#160; &#160; 　・戊辰戦争の時に新政府側の軍に参加して戦った士族の中で、 　　自分の主張が明 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1253">明治政府への反乱について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>明治時代初期に起きた明治政府への反乱について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・明治政府への反乱について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・戊辰戦争の時に新政府側の軍に参加して戦った士族の中で、</p>
<p>　　自分の主張が明治政府に反映されないことに不満を持っている人が多かった</p>
<p>　　※１８７３年の征韓論の議論は、不満を持つ士族が征韓論を支えたために</p>
<p>　　　議論になっていたと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・征韓論が否決になった時に、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助、副島種臣などの</p>
<p>　　征韓論の賛成派の参議はまとめて辞職してしまった</p>
<p>　　＝この出来事を、明治六年の政変という</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　→明治六年の政変が起きた次の年の１８７４年からは、征韓論に賛成していた士族の</p>
<p>　　　　不満を背景にして明治政府を批判する運動を始めた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※明治六年の政変の後に政府を指導したのは、</p>
<p>　　　　内務卿に就任した大久保利通という人だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・どのような反乱や反対運動があったのか</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・板垣退助や後藤象二郎などは、愛国公党という日本で最初の政党を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・さらに、イギリスから帰ってきた知識人の力を借りて、民撰議院設立の建白書</p>
<p>　　というものを作って、左院に提出した</p>
<p>　　→この時に、政府官僚の専断（自分の判断で勝手に判断することで、</p>
<p>　　　有司専制とも言う）によって起きてしまう問題点を批判した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・世論をもとにした政治を行うための国会を作ることを要求した</p>
<p>　　→この考え方は、新聞に載って世論に大きな影響を与えた</p>
<p>　　　＝この動きが、自由民権運動のきっかけにもなったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・保守的な士族の中で、新政府の誕生に貢献しながらも、改革の中で今までの士族の特権が</p>
<p>　　無くなっていくことに対する不満を持っている人がいた</p>
<p>　　＝そのため、政府に反対するための暴動を起こす人もいた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７４年に、征韓論の賛成派で元参議だった江藤新平という人が、</p>
<p>　　自分のふるさとである佐賀にいた政府に不満を持つ武士たちに迎えられて、</p>
<p>　　征韓党という党の党首になった</p>
<p>　　→そこで、征韓党は政府に対して反乱を起こした</p>
<p>　　　＝この反乱のことを、佐賀の乱という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７６年に廃刀令と秩禄処分が行われた</p>
<p>　　→この明治政府の動きに対して、復古的攘夷主義という考え方を持っていた</p>
<p>　　　熊本の反政府の士族が集まって出来た敬神党（神風連）という党が反乱を起こして</p>
<p>　　　熊本鎮台を襲うという出来事が起きた</p>
<p>　　　＝この出来事を神風連の乱（敬神の乱）という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・神風連の乱に答える形で、以下のようないくつかの乱が起きた</p>
<p>　　→・福岡県にいる反政府の士族が反乱を起こした</p>
<p>　　　　＝この反乱を秋月の乱という</p>
<p>　　　・山口県の萩という場所で、元参議だった前原一誠という人が反乱を起こした</p>
<p>　　　　＝この反乱を萩の乱という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などいくつもの乱が起きているが、</p>
<p>　　　反乱は全て明治政府が鎮めた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７３年に、徴兵制度や学制などによって、負担が増える状況に怒った</p>
<p>　　多くの農民たちが一揆を起こした</p>
<p>　　＝この一揆を血税一揆という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・さらに、１８７６年に地租改正反対一揆という大規模な農民一揆が起きた</p>
<p>　　→地租改正反対一揆は、茨城県で起きて、その後に三重、愛知、岐阜、堺の</p>
<p>　　　４県に広がっていって一揆が起きたが政府は軍隊を使って、</p>
<p>　　　地租改正反対一揆を抑えつけた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７７年に、薩摩に帰っていた西郷隆盛をトップに置いて、</p>
<p>　　私学校の生徒などの鹿児島の士族を中心にした最大規模の士族の反乱が起きた</p>
<p>　　→その時に、九州にいる反政府の士族が反乱に加わっていったが、</p>
<p>　　　結果的に政府が約半年をかけて全て鎮圧するという出来事が起きた</p>
<p>　　　＝この出来事を西南戦争という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→西南戦争を最後に、反政府の士族による反乱は無くなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・明治政府に対する反乱の内容と概要を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1253">明治政府への反乱について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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