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	<title>アラエス &#187; オスマン帝国</title>
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	<item>
		<title>スペインとポルトガルから始まった大航海時代の時の動きとその影響</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/2507</link>
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		<pubDate>Fri, 21 Feb 2014 01:00:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[コイングラム]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近世・近代ヨーロッパ史初期]]></category>
		<category><![CDATA[オスマン帝国]]></category>
		<category><![CDATA[コロンブス]]></category>
		<category><![CDATA[マゼラン]]></category>
		<category><![CDATA[価格革命]]></category>
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		<category><![CDATA[大航海時代]]></category>
		<category><![CDATA[生活革命]]></category>
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		<category><![CDATA[黒人奴隷]]></category>

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		<description><![CDATA[大航海時代の始まり・・スペインとポルトガル &#160; スペインとポルトガルは、航海術、羅針盤、新知識などを使って海外渡航を始めた ※なぜ、海外渡航をする必要があったのか ・ヨーロッパで使われていた香辛料は、長い間地中 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/2507">スペインとポルトガルから始まった大航海時代の時の動きとその影響</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p><strong>大航海時代</strong>の始まり・・<strong>スペイン</strong>と<strong>ポルトガル</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>スペインとポルトガルは、航海術、羅針盤、新知識などを使って<strong>海外渡航</strong>を始めた</p>
<p>※なぜ、海外渡航をする必要があったのか</p>
<p>・ヨーロッパで使われていた<strong>香辛料</strong>は、長い間地中海を経由してアジアから輸入されていた</p>
<p>→しかし、15世紀半ばになると、ヨーロッパとアジアとの間に<strong>オスマン帝国</strong>が入って利益を独占するようになってきた</p>
<p>＝そのため、香辛料を輸入するための新しい道が必要になり、海外渡航を始めた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※どのような海外渡航が行われたのか</p>
<p>・ポルトガル・・アフリカ南端の喜望峰に到達、1498年に<strong>ヴァスコ＝ダ＝ガマ</strong>がインドに到達した</p>
<p>・スペイン・・スペイン女王イサベルの援助を受けながら<strong>コロンブス</strong>が航海に出て、1492年に西インドのサンサルバドル島に到達、</p>
<p>また、<strong>マゼラン</strong>がインドを目指したがフィリピンで戦死し、残った部下によって世界一周が達成された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※海外渡航の影響</p>
<p>・コロンブスの到達後に、スペイン人が中南米に進出した</p>
<p>→スペイン人は、アステカ王国やインカ帝国を滅ぼし、幅広い文明を消滅させた</p>
<p>→征服したスペイン人は、国王の許可を得てアステカ王国やインカ帝国にいた人達（先住民）に納税や労働を強制した</p>
<p>※ただし、先住民は重労働と疫病が原因で、数が激減してしまった</p>
<p>＝そのため、スペイン人はアフリカから<strong>黒人を奴隷として輸入した</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※奴隷については、ローマ＝カトリック教会も文化を理解できないまま、奴隷の改宗とスペイン文化の浸透を進め、先住民の社会を大きく変えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・新航路が開拓されたことによって、世界の地域間の結びつきが、ヨーロッパ優位のもとで深まった</p>
<p>※この時に、ヨーロッパに以下のような変化が起きた</p>
<p>・商業の中心が地中海から大西洋岸に移り、イタリアが停滞した（＝<strong>商業革命</strong>）</p>
<p>・「新大陸」であるスペインの植民地から銀が大量に流入し、人口増加したため、物価が急速に上がった（＝<strong>価格革命</strong>）</p>
<p>・「新大陸」から様々な栽培作物が伝わった（＝<strong>生活革命</strong>）</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/2507">スペインとポルトガルから始まった大航海時代の時の動きとその影響</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>家産国家から租税国家への移行―シュンペーターに沿って</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/2366</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/2366#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 08 Jan 2014 04:17:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[ルーブル]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[世界史全般]]></category>
		<category><![CDATA[オスマン帝国]]></category>
		<category><![CDATA[ハプスブルク家]]></category>
		<category><![CDATA[等族]]></category>

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		<description><![CDATA[  以下はシュンペーター『租税国家の危機』に沿ったもので、家産国家から租税国家への移行について簡単にまとめています。家産国家と租税国家については↓↓↓ &#160; &#160; 租税問題が国家を揺るがす―「家産国家」か [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/2366">家産国家から租税国家への移行―シュンペーターに沿って</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p align="center"> </p>
<p>以下はシュンペーター『租税国家の危機』に沿ったもので、家産国家から租税国家への移行について簡単にまとめています。家産国家と租税国家については↓↓↓</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/2341">租税問題が国家を揺るがす―「家産国家」から「租税国家」へ</a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・近世領邦国家の領国経営</p>
<p>⇒最大の収入源は、自分の領地の農民から上がってくる貢納。当初は現物で納められていたようだが、13C以降は貨幣地代の形態をとるようになった。その他にも諸種の権利(造幣特権や関税特権、鉱山特権など)があった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>☆つまり、租税の一般的請求権はまったく存在せず、基本的にはこれらの諸収入で経常経費は賄われていたということです。しかし、14C・15Cにはこうした状況に危機が・・・</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・領国経営の危機―14C、15C</p>
<p>危機の原因：①領国経営の管理手法の劣悪さ②宮廷の浪費③戦費の増大</p>
<p>⇒特に③が大きな原因だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>Ex.ハプスブルク家</p>
<p>⇒神聖ローマ帝国の皇帝位を世襲していたハプスブルク家は、それまでの都市国家や領邦国家をはるかに上回る収入を自らの世襲領だけから取得していたのだが、これで雇うことができた歩兵の数は約6000人だったという。他方のオスマン帝国(トルコ)が戦場に派遣できた歩兵数は25万人だというから、まったく勝負にならないことがわかる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さてどうするか。借金です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>当初は借金をきちんと返済できていたけれど、次第に返済できなくなってくると、領主は領内の最上級貴族家門を構成する「等族」に資金の供給(=租税)を頼み込むようになる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※このような領主の頼み込む姿勢は、非常に謙遜した態度だったと言います。このような逼迫した状況になったのは自身の無力のせいだと認め、2度とこのようなことは繰り返さないと約束したそうです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>等族も、こうしたオスマン帝国の圧迫を領邦国家における「共同の困難」として、租税を認めました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この租税は決して恒久的なものではなく、あくまで戦費の調達が目的でしたが、時が経つにつれてそれ以外の目的にも使われるようになり、国家の一般的な歳出を賄う財源として定着していきました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>☆こうした過程から、シュンペーターは「国家は『共同の困難』が生み出す財政需要から創成された」と結論付けています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>以上がシュンペーターの言う家産国家から租税国家への移行です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>シュンペーターの言う当時の「共同の困難」は戦争でしたが、これを現代的に捉えれば、貧困や格差というのが今日における「共同の困難」と言えるかもしれません。</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/2366">家産国家から租税国家への移行―シュンペーターに沿って</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>近代のアラブ民族の動きについて</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/900</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/900#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 07:31:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[大きな魚]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代アジア史後期]]></category>
		<category><![CDATA[アラブ民族]]></category>
		<category><![CDATA[ウラービー]]></category>
		<category><![CDATA[エジプト]]></category>
		<category><![CDATA[エジプト総督]]></category>
		<category><![CDATA[エジプト＝トルコ戦争]]></category>
		<category><![CDATA[オスマン帝国]]></category>
		<category><![CDATA[シリア]]></category>
		<category><![CDATA[ナポレオン]]></category>
		<category><![CDATA[フランス]]></category>
		<category><![CDATA[ムハンマド＝アリー]]></category>
		<category><![CDATA[ワッハーブ派]]></category>

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		<description><![CDATA[近代のアラブ民族の動きについて &#160; &#160; ・アラブ民族の動きについて &#160; 　 　・１８世紀の半ばころに、イブン＝アブドゥル＝ワッハーブという人が、 　　アラビア半島でイスラーム教の改革を唱える [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/900">近代のアラブ民族の動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>近代のアラブ民族の動きについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・アラブ民族の動きについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・１８世紀の半ばころに、イブン＝アブドゥル＝ワッハーブという人が、</p>
<p>　　アラビア半島でイスラーム教の改革を唱えるという、ワッハーブ派の運動を起こした</p>
<p>　　</p>
<p>　　→ワッハーブ派は、以下のような運動を起こした</p>
<p>　　　・ワッハーブ派は、中央アラビアの豪族であるサウード派と結んで</p>
<p>　　　　ワッハーブ王国を建設した</p>
<p>　　　　※ワッハーブ派は、のちにリヤドに首都を定めた</p>
<p>　　　・ワッハーブ派は、イラン人やトルコ人がもたらした神秘主義と聖者崇拝によって、</p>
<p>　　　　イスラーム教は堕落したとみなした</p>
<p>　　　　＝そのため、預言者ムハンマドの最初の教えに帰れと説いた</p>
<p>　　　　　※この考え方は、現代まで続くイスラーム改革運動の始まりであり、</p>
<p>　　　　　　トルコ支配に反抗するアラブ民衆の間に受け入れられた</p>
<p>　　　　　　→結果的に、アラブ民族のめざめをうながすきっかけとなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・シリアでは、１９世紀の初めにアラブのキリスト教徒知識人の間に、</p>
<p>　　アラブ文化の復興運動というのが起こった</p>
<p>　　→この活動は、言語を通じてアラブの民族意識を高めることになった</p>
<p>　　　＝結果的に、１９世紀の終わり以降に展開するアラブ民族主義運動への道を</p>
<p>　　　　開いたと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１７９８年に、フランスがナポレオンの遠征によってエジプトを占領するということが起きた</p>
<p>　　→しかし、その後にフランスがイギリスとオスマン帝国の連合軍に負けるということが起きた</p>
<p>　　　＝そのため、オスマン帝国の主権がここで回復した</p>
<p>　　　　※しかし、１８０５年にこの混乱に乗っかってムハンマド＝アリーという人が</p>
<p>　　　　　エジプトの支配者になった</p>
<p>　　　　　＝そして、１８０６年にムハンマド＝アリーはエジプト総督としての地位を</p>
<p>　　　　　　オスマン帝国から獲得した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　※ムハンマド＝マリーが行なったことについて</p>
<p>　　・旧勢力のマムルークを一掃した</p>
<p>　　・フランスの援助によって近代的な陸海軍を創設した</p>
<p>　　・造船所、官営工場、印刷所を建設と、教育制度の改革を行った</p>
<p>　　　＝上の３つのようなことを行って、エジプトの近代化を強力に推し進めていった</p>
<p>　　・オスマン帝国の求めに応じてアラビア半島に出兵し、</p>
<p>　　　１８１８年に一時ワッハーブ王国を倒した</p>
<p>　　・シリアの領有を求めたが、それが拒否された</p>
<p>　　　→すると、２度にわたってオスマン帝国とたたかい勝利をおさめた</p>
<p>　　　　＝この戦いをエジプト＝トルコ戦争という</p>
<p>　　　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※エジプト＝トルコ戦争について</p>
<p>　　・この戦いで、フランスがエジプトを、ロシアがオスマン帝国を援助した</p>
<p>　　　→そのため、この戦いにイギリスが関わるようになってきた</p>
<p>　　　　＝結果的に１８４０年のロンドン会議で、ムハンマド＝アリーは、</p>
<p>　　　　　オスマン帝国スルタンの宗主権のもとにエジプト・スーダンの総督の地位を</p>
<p>　　　　　世襲することを認められるにとどまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・エジプトが、近代化を急ぎ、戦争によって莫大な債務を抱えるということが起きた</p>
<p>　　→そこで、１８６０年代からイギリスとフランスの財務管理下に置かれ、</p>
<p>　　　内政の支配も受けるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・エジプトが外国に支配されることに対して、ウラービー（オラービー）という人が</p>
<p>　　１８８１～８２年に反乱した</p>
<p>　　→すると、イギリスは単独でエジプトを軍事占領して、事実上これを保護下においた</p>
<p>　　　※しかし、立憲制の確立を求めて、ウラービー運動は</p>
<p>　　　　「エジプト人のためのエジプト」をスローガンにした</p>
<p>　　　　＝結果的にウラービー運動は、その後のエジプト民族主義運動の原点になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・近代のアラブ民族の動きについておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/900">近代のアラブ民族の動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>オスマン帝国支配の動揺とオスマン帝国の改革について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/899</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/899#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 07:21:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[大きな魚]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代アジア史後期]]></category>
		<category><![CDATA[アッバース1世]]></category>
		<category><![CDATA[アブデュル＝ハミト2世]]></category>
		<category><![CDATA[オスマン帝国]]></category>
		<category><![CDATA[カルロヴィッツ条約]]></category>
		<category><![CDATA[クリミア戦争]]></category>
		<category><![CDATA[タンジマート]]></category>
		<category><![CDATA[ベルリン条約]]></category>
		<category><![CDATA[ミドハド憲法]]></category>
		<category><![CDATA[ロシア＝トルコ戦争]]></category>
		<category><![CDATA[第2次ウィーン包囲]]></category>

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		<description><![CDATA[オスマン帝国支配の動揺とその改革について考えてみます &#160; &#160; ・オスマン帝国支配の動揺について &#160; &#160; 　・１６世紀にオスマン帝国の領土は、アジア、ヨーロッパ、アフリカに拡大してい [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/899">オスマン帝国支配の動揺とオスマン帝国の改革について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>オスマン帝国支配の動揺とその改革について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・オスマン帝国支配の動揺について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１６世紀にオスマン帝国の領土は、アジア、ヨーロッパ、アフリカに拡大していった</p>
<p>　　※同じころにポルトガル人のインド洋海域への侵入が始まった</p>
<p>　　　→そして、インド洋の制海権はイギリスの手に渡った</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　→また、１７世紀にはイギリス東インド会社の商館がペルシア湾に近いバスラに設けられた</p>
<p>　　　＝そして、サファヴィー朝のアッバース１世という人は、東インド会社の協力を得て、</p>
<p>　　　　ポルトガルの勢力をペルシア湾のホルムズ島から追い払うということを行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１７世紀に、オスマン帝国が第２次ウィーン包囲の失敗ということを起こした</p>
<p>　　※この失敗は、オスマン帝国に致命的な打撃をもたらしたと言われている</p>
<p>　　　→その後、１６９９年にカルロヴィッツ条約という条約を結んだ</p>
<p>　　　　＝この条約によって、オスマン帝国はハンガリーやトランシルヴァニアなどを</p>
<p>　　　　　オーストラリアに割譲した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※さらに、１８世紀の後半にはロシアとの戦いに大敗したため、</p>
<p>　　　オスマン帝国は黒海の北岸を奪われた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１７世紀以後に、以下のようなことが起きた</p>
<p>　　→・オランダが東南アジアに進出した</p>
<p>　　　・インドがイギリスの支配下に組み込まれた</p>
<p>　　　・オスマン帝国がバルカンの領土を次々に失っていった</p>
<p>　　　　→その結果、帝国内のアジア・アフリカ領でも、アラブ人を始めとして</p>
<p>　　　　　民族的な自覚が起こった</p>
<p>　　　　　＝そして、オスマン帝国からの自立を求める新しい運動が始まった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※当時は、オスマン帝国をめぐって、ヨーロッパ列強の利害は複雑にからみあっていた</p>
<p>　　　→その中で、様々な民族の自立と列強の進出によって、オスマン帝国の領土は</p>
<p>　　　　どんどん縮小していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・オスマン帝国の改革について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１９世紀の初め以降から、オスマン帝国はイェニチェリ軍団の解散など</p>
<p>　　様々な改革を行っていた</p>
<p>　　→その中でオスマン帝国は、アブデュル＝メジト１世という人が</p>
<p>　　　タンジマートを実施した</p>
<p>　　　※タンジマート・・司法、行政、財政、軍事の徹底した西欧化改革のこと</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　→タンジマートという改革によって、以下のようなことが起きた</p>
<p>　　　・オスマン帝国が、伝統的なイスラーム国家から、法治主義にもとづく近代国家へと体制を一新した</p>
<p>　　　・一方で、ヨーロッパ工業製品の流入が土着産業の没落を促した</p>
<p>　　　　※そのため、外国資本への従属がかえってすすんだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・一方で、クリミア戦争後に、オスマン帝国内で立憲制への要求が高まってきた</p>
<p>　　→すると、１８７６年に当時の宰相だったミドハトはアジアで最初の憲法である</p>
<p>　　　ミドハト憲法を発布した</p>
<p>　　　※しかし、ロシア＝トルコ戦争という戦争が勃発した時に、</p>
<p>　　　　アブデュル＝ハミト２世という人は、この戦争を口実に憲法を停止して、</p>
<p>　　　　議会を閉鎖するということをした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※また、ロシア＝トルコ戦争でオスマン帝国は敗北した</p>
<p>　　　　＝その結果、１８７８年にベルリン条約を結んで、</p>
<p>　　　　　ヨーロッパ側の領土の半分以上を一気に失うことになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・オスマン帝国の動揺についておさえる</p>
<p>・オスマン帝国の改革についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/899">オスマン帝国支配の動揺とオスマン帝国の改革について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>オスマン帝国の成立と発展について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/893</link>
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		<pubDate>Sun, 13 Oct 2013 21:16:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[足利]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近世・近代アジア史前期]]></category>
		<category><![CDATA[オスマン帝国]]></category>
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		<category><![CDATA[スルタン]]></category>
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		<category><![CDATA[レパントの海戦]]></category>

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		<description><![CDATA[オスマン帝国の成立と発展について考えてみます &#160; &#160; ・オスマン帝国の成立と発展について &#160; &#160; 　・１３世紀の終わりに、西方に進出したトルコ人は小アジア西北部に 　　オスマン帝国 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/893">オスマン帝国の成立と発展について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>オスマン帝国の成立と発展について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・オスマン帝国の成立と発展について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１３世紀の終わりに、西方に進出したトルコ人は小アジア西北部に</p>
<p>　　オスマン帝国を建設した</p>
<p>　　→その後、小アジア側のビザンツ帝国領を奪うということを行った</p>
<p>　　　＝そして、バルカン半島に進出し、１３６６年にアドリアノープル（現在のエディルネ）を</p>
<p>　　　　首都にした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・その後、１３９６年にバヤジット１世という人が、ニコポリスの戦いで</p>
<p>　　バルカン諸国とフランス・ドイツの連合軍を撃破するということが起きた</p>
<p>　　→その後は、小アジアに進出したティムールと衝突し、負けてしまった</p>
<p>　　　※しかし、メフメト２世の時に国力を回復し、１４５３年にコンスタンティノープルを倒した</p>
<p>　　　　＝そして、結果的にビザンツ帝国を滅ぼした</p>
<p>　　　　　※この時にコンスタンティノープルが首都になり、以後はイスタンブルという呼び方が</p>
<p>　　　　　　一般的になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・その後、セリム１世という人は、新しく出てきたサファヴィー朝を倒した後に</p>
<p>　　シリアへ進出した</p>
<p>　　→そして、１５１７年にはマムルーク朝を倒してエジプトを組み合わせた</p>
<p>　　　＝その結果、それまでマムルーク朝の管理下にあった両方の聖都（メッカとメディナ）の</p>
<p>　　　　保護権を手に入れた</p>
<p>　　　　※以後、オスマン帝国のスルタンというところは、カリフ政治の後継者として</p>
<p>　　　　　スンナ派イスラーム教を守る中心の存在になった　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・オスマン帝国は、スレイマン１世という人のもとで最盛期を迎えた</p>
<p>　　→スレイマン１世は、以下のようなことを行った</p>
<p>　　　・サファヴィー朝から南イラクを奪った</p>
<p>　　　・北アフリカに支配を広げた</p>
<p>　　　・ハンガリーを征服した</p>
<p>　　　・１５２９年にウィーンを包囲してヨーロッパ諸国に大きな脅威を与えた</p>
<p>　　　・１５３８年にプレヴェザの海戦というので、スペイン・ヴェネツィアの連合艦隊を破って、</p>
<p>　　　　地中海の制海権を手中におさめた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→次に、セリム２世という人が出てきて、以下のようなことを行った</p>
<p>　　　・スレイマン１世の時代の慣習にもとづいて、１５６９年にフランス商人に</p>
<p>　　　　領内での居住と通商の自由をおおやけに認めた</p>
<p>　　　　＝これをカピチュレーションという</p>
<p>　　　　　　※カピチュレーションについて</p>
<p>　　　　　　　・この特権は、のちにイギリスやオランダにも与えられた</p>
<p>　　　　　　　・１８世紀以降にオスマン帝国の衰退を迎えた時に、ヨーロッパの国々は</p>
<p>　　　　　　　　これを中東侵略の有力な手段としても使った</p>
<p>　　　・レパントの海戦で負けた</p>
<p>　　　・オスマン艦隊が依然として東地中海を自由に航行した</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　＝そのため、１７世紀の終わりまで、オスマン帝国とヨーロッパ諸国との力関係に</p>
<p>　　　大きな変化はなかった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・オスマン帝国のスルタンというところは、強大な権力を持つ専制君主だった</p>
<p>　　※スルタンは、イスラーム法にもとづく政治を行って、州、県、郡に分かれる</p>
<p>　　　整然とした行政機構を整えた</p>
<p>　　※一方で、帝国内に住むキリスト教徒やユダヤ教徒の共同体（ミッレト）には、</p>
<p>　　　法で定められた自治を認め、イスラーム教徒との共存が目指された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・スルタンの軍隊は、ティマールを保持する騎士の軍団とイェニチェリ軍団とからなっていた</p>
<p>　　※ティマールとは、スルタンから与えられた土地からの徴税権を意味している</p>
<p>　　　→ティマール制は、イクター制を継承した制度だと言われている</p>
<p>　　※イェニチェリ軍団は、バルカン半島の征服後に、キリスト教徒の子弟を強制的に集めて</p>
<p>　　　編制した歩兵軍団だった</p>
<p>　　　→そのため、スルタンの常備軍として、ヨーロッパやアジア各地の征服に活動した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・オスマン帝国の流れと内部の様子、周辺との関係についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/893">オスマン帝国の成立と発展について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>サファヴィー朝について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/892</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/892#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 13 Oct 2013 21:08:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[足利]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近世・近代アジア史前期]]></category>
		<category><![CDATA[アッバース1世]]></category>
		<category><![CDATA[イスファーン]]></category>
		<category><![CDATA[イスマーイール]]></category>
		<category><![CDATA[イラン国家]]></category>
		<category><![CDATA[オスマン帝国]]></category>
		<category><![CDATA[サファヴィー朝]]></category>
		<category><![CDATA[シャー]]></category>
		<category><![CDATA[シーア派]]></category>

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		<description><![CDATA[サファヴィー朝の動きについて考えてみます &#160; &#160; ・サファヴィー朝について &#160; &#160; 　・ティムール朝が衰えるということが起きた 　　→その後、イランでは神秘主義教団の長であるイスマ [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/892">サファヴィー朝について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>サファヴィー朝の動きについて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・サファヴィー朝について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ティムール朝が衰えるということが起きた</p>
<p>　　→その後、イランでは神秘主義教団の長であるイスマーイールが武装した遊牧民の信者を連れて</p>
<p>　　　サファヴィー朝を開いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・サファヴィー朝は、最初は統一したイラン国家ではなかった</p>
<p>　　→逆に、重要な地域を遊牧民のトップが支配する遊牧国家だった</p>
<p>　　　※しかし、サファヴィー朝は建国後に国内統一のためにシーア派を国教とした</p>
<p>　　　　＝そして、古代以来イランの王を意味するシャーの称号を用いて、</p>
<p>　　　　　イラン人の民族意識を高めようとした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・サファヴィー朝は、アッバース１世という人の時に最盛期を迎えた</p>
<p>　　→アッバース１世はオスマン帝国と戦って領土の一部を取り返して、</p>
<p>　　　ポルトガル人をホムルズ島から追放した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→さらに、新しい首都としてイスファハーンを作って、</p>
<p>　　　美しいモスク、学院、庭園などを首都で飾った</p>
<p>　　　※この時に「イスファーンは世界の半分」と言われるほどの繁栄をもたらした</p>
<p>　　　　と言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※アッバース１世の時代の時に、イランがはじめてヨーロッパ諸国と外交や通商関係を結んだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　＝そして、サファヴィー朝はしだいに混乱して、崩壊に向かっていった</p>
<p>　　※ただし、この王朝のもとで建築、美術、工芸に代表されるイランの芸術は</p>
<p>　　　最高の発達をとげたと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・サファヴィー朝の動きをおさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/892">サファヴィー朝について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>スラヴ人と周辺民族の動きについて②　－南スラヴ人・西スラヴ人・スラヴ人の周辺の様子－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/845</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/845#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 12 Oct 2013 14:18:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[康太]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[中世ヨーロッパ史]]></category>
		<category><![CDATA[オスマン帝国]]></category>
		<category><![CDATA[スラヴ人]]></category>
		<category><![CDATA[ハンガリー王国]]></category>
		<category><![CDATA[ブルガール人]]></category>
		<category><![CDATA[マジャール人]]></category>
		<category><![CDATA[ヤゲウォ朝リトアニア＝ポーランド王国]]></category>
		<category><![CDATA[南スラヴ人]]></category>
		<category><![CDATA[第1次ブルガリア帝国]]></category>
		<category><![CDATA[第2次ブルガリア帝国]]></category>
		<category><![CDATA[西スラヴ人]]></category>

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		<description><![CDATA[スラヴ人と周辺民族の動きについて、南スラヴ人、西スラヴ人、スラヴ人の周辺の様子について 考えてみます &#160; &#160; 　・南スラヴ人について &#160; 　　・南スラヴ人・・バルカン半島に南下した民族のこと [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/845">スラヴ人と周辺民族の動きについて②　－南スラヴ人・西スラヴ人・スラヴ人の周辺の様子－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>スラヴ人と周辺民族の動きについて、南スラヴ人、西スラヴ人、スラヴ人の周辺の様子について</p>
<p>考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・南スラヴ人について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・南スラヴ人・・バルカン半島に南下した民族のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・南スラヴ人の中で最大の勢力であるセルビア人は、最初はビザンツ帝国に従って</p>
<p>　　　ギリシア正教に改宗した</p>
<p>　　　→そして、１２世紀に独立し、１４世紀の前半にバルカン半島北部を</p>
<p>　　　　支配する国になっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・南スラヴ人のクロアティア人やスロヴェニア人は、西方のフランク王国の影響で</p>
<p>　　　ローマ＝カトリックを受け入れた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・南スラヴ人の大半は、１４世紀以降にオスマン帝国の支配下に置かれるようになっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・西スラヴ人について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・西スラヴ人・・ポーランド人、チェック人、スロヴァキア人などを指す</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・西スラヴ人は、西ヨーロッパの影響を受けて、ローマ＝カトリックに改宗し、</p>
<p>　　　西方ラテン文化圏に入った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・中でもポーランド人は、１０世紀ころに建国し、１４世紀の前半には</p>
<p>　　　カジミェシュ（カシミール）大王のもとで繁栄していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・ポーランド人の北側にいたバルト語系のリトアニア人は、ドイツ騎士団に対抗するために</p>
<p>　　　１４世紀にポーランドと合体して</p>
<p>　　　ヤゲウォ（ヤゲロー）朝リトアニア＝ポーランド王国を作った</p>
<p>　　　※ヤゲウォ朝は、１５世紀に最も強くなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・チェック人は、１０世紀にベーメン（ボヘミア）王国を統一した</p>
<p>　　　※しかし、ドイツとの関係が密接で、１１世紀には神聖ローマ帝国に編入された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・スラヴ人の周辺民族の交流について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・スラヴの様々な民族と関係を持ちながら、東ヨーロッパの非スラヴ系の様々な民族も</p>
<p>　　　自立の道を進んだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・ブルガール人という人達は、７世紀にバルカン半島北部に第１次ブルガリア帝国を建国した</p>
<p>　　　→その後、スラヴ化してギリシア正教に改宗した</p>
<p>　　　→そして、ビザンツ帝国に合併され、１２世紀に第２次ブルガリア帝国として再び独立した</p>
<p>　　　　＝結果的に１４世紀にオスマン帝国に併合された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・マジャール人という人達は、黒海北岸からドナウ川中流のパンノニア平原に移動した</p>
<p>　　　→そして、１０世紀の末にハンガリー王国を作って、ローマ＝カトリックを受け入れた</p>
<p>　　　　※ハンガリー王国は、１５世紀に最も繁栄した</p>
<p>　　　　　＝しかし、結果的に１６世紀にオスマン帝国の支配下に入った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・スラヴ人の概要についておさえる</p>
<p>・それぞれの地方のスラヴ人についておさえる</p>
<p>・スラヴ人の周辺民族の交流についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/845">スラヴ人と周辺民族の動きについて②　－南スラヴ人・西スラヴ人・スラヴ人の周辺の様子－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>ビザンツ帝国について①　－ビザンツ帝国の歴史－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/841</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/841#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 12 Oct 2013 13:49:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[康太]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[中世ヨーロッパ史]]></category>
		<category><![CDATA[オスマン帝国]]></category>
		<category><![CDATA[ギリシア正教会]]></category>
		<category><![CDATA[コンスタンティノープル]]></category>
		<category><![CDATA[ハギア＝ソフィア聖堂]]></category>
		<category><![CDATA[ビザンツ帝国]]></category>
		<category><![CDATA[ユスティニアス大帝]]></category>
		<category><![CDATA[ヴァンダル王国]]></category>
		<category><![CDATA[十字軍]]></category>
		<category><![CDATA[東ローマ帝国]]></category>

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		<description><![CDATA[ビザンツ帝国について、歴史を中心に考えてみます &#160; &#160; ・ビザンツ帝国の歴史について &#160; &#160; 　・西ヨーロッパがカール大帝のころまで一つの世界として自立する一方で、 　　東ヨーロッ [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/841">ビザンツ帝国について①　－ビザンツ帝国の歴史－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>ビザンツ帝国について、歴史を中心に考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・ビザンツ帝国の歴史について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・西ヨーロッパがカール大帝のころまで一つの世界として自立する一方で、</p>
<p>　　東ヨーロッパではビザンツ帝国（東ローマ帝国）がギリシア正教と</p>
<p>　　ギリシア古典文化を融合した独自の文化的世界を作った</p>
<p>　　→ビザンツ帝国は、西ヨーロッパに対して経済的かつ文化的な</p>
<p>　　　先進文明圏として優位を保った</p>
<p>　　　</p>
<p>　・ビザンツ帝国は、西ヨーロッパとは違い、ゲルマン人の大移動による</p>
<p>　　深刻な打撃を受けなかった</p>
<p>　　→そのため、商業と貨幣経済は繁栄し続けた</p>
<p>　　　※首都のコンスタンティノープル（旧名ビザンティウム）は、</p>
<p>　　　　ヨーロッパ世界最大の貿易都市として、中世の間栄えていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・政治面では、ローマ帝政末期以来の巨大な官僚制による皇帝専制支配が維持されていた</p>
<p>　　※西ヨーロッパでは、皇帝と教皇という２つの権力が並んでいたが、</p>
<p>　　　ビザンツ皇帝は、地上でのキリスト教の代理人として、</p>
<p>　　　ギリシア正教会を支配する立場にあった</p>
<p>　　　＝そのため、ビザンツ皇帝は政治と宗教の両面で最高の権力者だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・西ローマ帝国が滅亡してからしばらくは、西方のゲルマンの様々な国家も、</p>
<p>　　ローマ帝国唯一の後継者であるビザンツ皇帝の権威を認めて服従していた</p>
<p>　　→特に、ユスティニアス大帝は地中海帝国の復興を目指し、</p>
<p>　　　北アフリカのヴァンダル王国やイタリアの東ゴート王国を滅ぼして、</p>
<p>　　　一時的に地中海のほぼ全域にローマ帝国を復活させた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・内政については、「ローマ法大全」の編纂や、ハギア（セント）＝ソフィア聖堂の</p>
<p>　　建立などの事業に力を注ぎ、中国から養蚕技術を取り入れて、</p>
<p>　　絹織物産業の発展の基礎を築いていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・一方で、長期間の征服戦争によって国力は低下していってしまった</p>
<p>　　→そのため、ユスティニアヌス大帝が死んだ後に、</p>
<p>　　　イタリアがランゴバルド王国やフランク王国に奪われてしまった</p>
<p>　　→また、７世紀にササン朝が、その後にアラブ人ムスリムが進出してきたことによって、</p>
<p>　　　シリア・エジプトが奪われた</p>
<p>　　→さらに、スラヴ人が大量にバルカン半島に移住した</p>
<p>　　→そして、北方でトルコ系のブルガール人がブルガリア帝国を作った</p>
<p>　　　＝このように、ビザンツ帝国は段々と支配権を小さくしていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→１０世紀から１１世紀前半は、異民族を撃退して一時的に勢力を回復した</p>
<p>　　→しかし、１１世紀の後半に東方からセルジューク朝の侵入を受けた</p>
<p>　　→そして、１３世紀の前半に第４回十字軍が首都を奪ってラテン帝国という帝国を作った</p>
<p>　　　＝このように、国内はどんどん混乱していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→その後、一度ビザンツ帝国が復活した</p>
<p>　　　※しかし、昔のような勢いが戻ることはなかった</p>
<p>　　　　＝そのため、結果的に１４５３年にオスマン帝国に滅ぼされてしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・ビザンツ帝国の歴史についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/841">ビザンツ帝国について①　－ビザンツ帝国の歴史－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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