満州事変と日中戦争をまとめてみた
事前に読むと理解が深まる記事
満州事変
・1931年9月18日に、柳条湖で、満州にいた日本軍(関東軍)が南満州鉄道の線路を爆破するということを起こした
→この動きを関東軍は、「柳条湖での爆破は中国側がやったこと」として中国への攻撃を開始した
※この時に、ほぼ満州全域を占領した(=満州事変)
→満州事変の後、関東軍は清の最後の皇帝である溥儀を元首として「満州国」を作った
※満州国は、最初は日本政府も消極的だったが、軍部に従って満州国を認めた
=実際に、恐慌に苦しむ農民を、日本から集団移住させた
※満州国の実権は日本人が握っていた
→満州事変に対して、中国は日本の侵略だとして国際連盟に訴えた
→国際連盟は、満州にリットン調査団を送って実情を調査した
=その結果報告によって、満州国の承認の取り消しと、占領地からの日本軍の引き揚げを勧告する案を作成し、可決した
※日本は、可決が不満だった(42対1で負けている)
→そのため日本は1933年に国際連盟から脱退した
※加えて、1934年にワシントン軍縮条約を破棄し、1935年にロンドン軍縮会議から脱退して、国際社会から孤立した
満州事変の時の国内の動き
・満州事変によって、日本の国内に軍国主義の動きが高まった
→その影響で、2つの出来事が起きた
・1932年5月15日に、海軍の青年将校などが首相の犬養毅を襲って射殺した(=五・一五事件)
・1936年2月26日に、陸軍の青年将校などが大臣などを殺して、一時的に東京の中心部を占拠した(=二・二六事件)
→軍部は、上の2つの事件をきっかけに発言力を強めて、政治に深く介入した
※この時政府は、自由や平和の思想を治安維持法で厳しく取り締まった
中国国内の動き
中国国内では、国民政府(蒋介石)と中国共産党の内戦が続いていた
→その時に共産党は、毛沢東の指導のもとに、国民政府に対して内戦をやめ、協力して日本に対抗することを呼びかけた
※この考えは、中国国民の支持を受けた
=結果的に、1936年に内戦は停止され、抗日運動が盛り上がった
※一方で日本は、華北にも手を伸ばそうとしていた
→そして、1937年7月7日に、北京郊外で日本軍と中国軍による衝突事件が起きた
=この衝突事件をきっかけに、宣戦布告がないまま、日中戦争が始まった
日中戦争の時の日本と中国の動き
・日本軍は、シャンハイや首都のナンキンを占領した
※ナンキンを占領する際、日本軍は多くの住民を殺害し、暴行を行った(=南京虐殺事件)
・国民政府と中国共産党は、抗日民族統一戦線を作って、日本の侵略に対抗した
→国民政府と中国共産党は、以下のようなことを行った
・国民政府:チョンチンに移動し、アメリカ、イギリス、ソ連などの援助を受けて戦いをつづけた
・中国共産党:農民の支持を得てゲリラ戦を続けた
※日中戦争の裏で、朝鮮でも日本への抵抗が続いた
※満州などでも、朝鮮から脱出した人々によって朝鮮民族の独立を目指す戦いが進んだ
日中戦争からの日本の動き
・日本は、日中戦争が始まると、国家予算のほとんどが軍事費にあてられた
※この時に、国民は心身を鍛え、物資の不足に耐え、節約につとめ、戦争に協力しなければいけないと説かれた
→そのため、国家によって生活の仕方が決められていった
=結果的に、1938年に国家総動員法が制定された
→国家総動員法によって、政府が議会の承認なしに国民生活全体を統制できるようになった
※その時に、以下のようなことが起きた
・国民が軍需工場で働かされた
・資金や物資が厳重に統制された
・生活必需品が配給制になった
・商品の価格統制が起きた
※加えて当時の社会の動きとして、以下のようなことが起きた
・1940年に労働組合が解散させられ、産業報国会が作られた
・政友会や立憲民政党などの政党は自分から解散して、大政翼賛会にまとめられた
・大政翼賛会の下部組織として、隣組が作られた
※隣組は、住民同士の助け合いと同時に、住民同士の監視の役割も果たした
・政府は、朝鮮人を日本人に同化させる動きを一層見せた(=皇民化政策)
・朝鮮人に、日本式の姓名を名乗らせ(=創氏改名)、神社への参拝を強制した
※同化政策は、台湾でも行われた